子どもに補ってもらう
親、教師、上司は指導者として常に優れていなければならぬ、能力が常に子どもや生徒、部下よりも高くなければならぬ、という「呪い」があるらしい。ナメられないためには常に自分が能力でもパフォーマンスでも上であることを誇示しなければ、という「呪い」も。
「あさイチ」という番組で面白い実験が。「危ないから飛び出しちゃいけないって言ってるでしょう!」と何度叱っても言うことを聞かないそそっかしい子どもに悩まされてる親御さん。複数の親子がある実験に参加した。親が目隠しし、子どもが親の手を引いて横断歩道を渡る実験。
すると、どれだけ言い聞かせても飛び出す困った子のはずが、交差点で左右も見ずに飛び出すはずの子が、左右を何度も確認し、大丈夫なことを十分に確認しつつ、親の手をひいて渡った。親が転ばないように、慎重に。どの子も、一人残らず。実験した先生も驚いていた。
恐らく、子どもたちが親の言うことを聞かなかったのは、周囲に注意を払うという面倒な作業を親に「アウトソーシング」していたのだろう。先回りして注意するくらいなんだから、親にそれは任せておけばいい。自分の興味のあることに集中してしまおう、と。
しかし、親が目隠しし、親の安全を確保する責任が自分にあるとなった途端、細心の注意を払い、慎重に行動するように。親の生命が自分にかかってるとなったとき、責任感の強い行動が促された。
どうも子どもは、親が先回りしてしまうと「そっちはやらなくていいや、努力しなくていいや」となる子が一定数いるらしい。そして親が関与しない分野を探してそちらに進もうとしてしまう。一つには、親が先回りしてしまうと受け身、受動感が出て、自分が能動的に取り組んだ感が失われるからかも。
でも、親にできないこと、それを自分が補わなければならないとなったとき、自分がそれを成し遂げたとき、強い達成感が得られる。だから子どもは能動的に、進んでその役割を果たそうとするのだろう。
私は、親の至らないところ、教師の足りないところ、上司の苦手とするところを補ってもらえばよいのだと思う。そしてその方が人は伸びるもののように思う。責任感も強まり、そちらの能力も増すように思う。
劉備は関羽や張飛、趙雲のような武力もない。孔明のような智力もない。けれど彼らはみな劉備を慕い、敬った。自分より能力が低いと見くびることもなかった。なぜだろうか。「ありがとう」だと思う。劉備は「私には力を貸してほしい」ということを平気で言える人物だった。
求められた側は、自分をこんなにも必要としてくれる人間がいる、ということが嬉しくなる。人間というのは、「この世に生まれてきてよかったんだ、生きていて構わないんだ」という確信がほしいもののように思う。劉備は「お前のおかげだ」と感謝することで、承認欲求を大いに満たしてくれる人物だった。
指導者である自分が子どもや生徒、部下よりも優秀でなければ、という「呪い」は忘れてもよいのかもしれない。子どもや部下が成長するには、むしろこちらの欠落している部分を補ってもらうつもりくらいの方がよいのかもしれない。その方が人は伸びるようだから。
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