「賢い自分」でなくても大丈夫

「賢い自分」でなくなったらどうしよう、という恐怖に支配されてきた、という方から相談のメールを受けた。その方は恐怖で勉強してきたので、勉強が苦痛で仕方ないという。面白いと思えない、と。学ぶことの喜びを感じられない、と。学ぶ楽しみを取り戻すにはどうしたらよいか、と。

それまでに体験したことのないことをしてみるとよいかもしれない。旅はその一つ。
私は京大に入ってから3年ほど鬱のような状態になった。一体何をしたらよいのか分からない。やる気が出ない。そんな中、一週間、四国へ旅に出た。

高知市からテクテク道を歩いて行くと、よく声をかけられた。四国はお遍路の土地で、旅の人をもてなす風習がある。おむすびや文旦を頂いたりした。見知らぬ人から親切を頂く新鮮な体験は、「あの人たちは見知らぬ私になぜこうして施しをしてくれるのだろう?」という問いを残した。

海岸べりでテントを張って寝たら雨に吹き込まれ、全身濡れ鼠に。もう歩く気力も失い、バス停のベンチで濡れるまま座っていたら、年配の女性が「来なさい。ともかくおいでなさい」と私を盛んに手招き。ご自宅に招じ入れられると「私は出かけなきゃだけど、夫に言っといたから」と出ていかれた。

すると年配の男性が「風呂が沸いたらから入りなさい」。風呂を頂いて出てくると「あいにくカツオのたたきはないが」と仰いながら、料理を用意してくれていた。
やがて日本酒まで出てきて、ご近所の方まで酒盛りに登場して。
私を招じ入れてくれた女性が戻ってきて「今日はもうお泊まりなさい」。

朝、起きるとずぶ濡れだった服や荷物は乾かしてくれていて、お弁当までこさえてくれた。私は天気と同様、晴れやかな気分で歩き出すことができた。なぜみっともない格好で、濡れ鼠になった人間にこの人たちはこんなにも親切にしてくださるのだろう?この問いは、「学び」の射角をものすごく拡大した。

私の塾では、不登校の子が一定数通っていた。その子は引きこもりをもう2年も続けていた。旅に出てみろ、と言ったら真に受けて、突然家出した感じになって大騒ぎになったこともある。でもそれで度胸がついたのか、北海道へ一人旅に出かけた。

ライダーハウスで泊まる最初の日、端っこで小さくなっていたという。人が怖い。何せ、学校の同級生とうまくいった試しがないのだから。ところが「みんな一緒に食事するのが決まり」ということで、渋々顔を出したら、とても居心地が良かったのだという。

顔を出したからと言って、無理に発言を求められるわけでもない。でも話の輪の中に確かに自分を一員としてみなしてくれている空気がある。強制のない、その柔らかで優しい空気がとても居心地良かったという。それからその子は北海道に何度となく旅に出て、ついに北海道に定住した。

別の不登校の子は、沖縄に旅に出た。「仕事がしたいです」と出会う人に言って回れ、と言ったら、それを実行したようで、海に潜って貝を採る海人の仕事を住み込みで見つけた。やがて仕事を見つけて、生活できるようになった。

私達はついつい、勉強といえば机に向かってする座学を勉強だと考えてしまう。けれど学びというのは、もっとはるかに射角が広い。生きる行為すべてが学びと言って良い。しかし慣れ親しんだ日常を生きていると、すべてが「路傍の石」化して、学ぶものなんかないように感じてしまう。

非日常の旅に出かけると、そして見知らぬ人たちの中へ飛び込むと、すべてが非日常に変わり、新鮮な体験へと変わる。日常だったものも異なる意味付けで見えるようになる。水を飲みたいと思っても、自宅じゃなければ気安くよその家の蛇口をひねるわけにもいがない。

洗濯機がなければどうしよう?となる。
電車やバスに揺られている毎日だったのに、見知らぬ道をトボトボと歩いていると、道端の花や草木、家々がよく見える。サッとクルマで通り過ぎるのと違う時間が流れることに気づかされる。

旅は、日常の解釈を一新する効果がある。
ある学生はイジられキャラで、そのことが嫌で仕方なかった。私は旅を勧めた。旅先で見知らぬ人に、今まで自分が演じたことのないキャラを演じてごらん、とけしかけた。その「実験」が功を奏したのか、学生はやがてイジられキャラから脱した。

日常を惰性で生きてしまう。「慣性の法則」が働いてしまって、このままではよくないと思っていても同じようにしてしまう。そうした倦怠感を、旅は拭ってくれる効果がある。非日常の中に飛び込むことで、日常がよく見えてくることがある。再解釈することで新たな学びが発生する。

やがて私は、日常の中で旅するようになった。「毎日同じようにするのはツマンネー」と考え、毎日やってることを別のアプローチにしてみるなど、「実験」するようになった。インスタントコーヒーはどのくらいの分量にすると美味いのか?味噌はどのくらいが美味いのか?

白菜はとう切ると効率的か?本はどう読むと早く読めるのか?本を読む姿勢にはどんなものがある得るのだろう?あ、ジャンプしながらだと全然字が見えないな・・・などとアホなことをして自分で笑いながら、「ふーん、そうなのかぁ、知らなかったな」という発見を楽しんでいる。

赤ちゃんに知育おもちゃを渡すと、そのおもちゃが想定していないアプローチをするとが多い。ガンガン地面に叩きつけたり、投げたり、かじったり。親は「こうして遊ぶのよ」と教えたくなる。でも、きっと決められた遊びでは大して学べない。赤ちゃんの予想外のアプローチこそが、深い学びとなる。

地面に叩きつけるとこんな音がなるのか。かじったときの感覚はこんなので、味はこんななのか。投げるとこんなふうに転がるのか。そうした一連の「実験」で赤ちゃんはその物体の硬さや素材感、重量、頑丈さなどの膨大なデータを、語幹を通じて入手する。

私も、日常を非日常なアプローチで、五感を使って味わい直すことを楽しんでいる。すると、わかり切っていると思っていたことに実に新鮮な顔が見えてきて驚かされる。え?お前にそんな一面があったの?と。

日常が決まりきった形過ぎて学びがないと感じる人は、旅に出るとよいと思う。私のように慣れてくると、日常を旅する(今までやったことのない方法で実験する)こともできるようになる。学びはいつの瞬間にも開かれていることに気づかされる。机に向かう座学だけが勉強だと思ったら大間違い。

新鮮な世界は実に面白い。もし勉強に倦(う)んでいるなら、旅に出るとよい。実際に旅に出るとよい。物理的に非日常の空間に身を置くと、簡単に新鮮な感覚を味わえる。新鮮さは学ぶ楽しみを取り戻す大切な要素。ぜひ、度に出てみてもらいたい。そして日常も、やったことのない実験という旅で満たして。

「賢い自分」でなくなることを恐怖してるというのは、人に劣後することを恐怖しているのだろう。しかし人に劣後することで得られる新たな学びというものがある。それをYouMeさんから教えられた。

YouMeさんが赤ちゃん連れで初めて行く公園。いわゆる公園デビュー。うまくママさんたちの輪に入れるか?と思っていたら、すんなり輪の中に入っていた。それが偶然でないのは、見知らぬ土地である大阪の公園でもそうだったことからもうかがわれる。そこでYouMeさんを観察してみた。

すると、YouMeさんはやたら驚いていた。「わあ!あのお兄ちゃん、足が速いねえ!ビューン!」「あのお姉ちゃん、雲梯上手だねえ。ぴょんぴょん」すると自分のことで驚いてる大人がいると気がついて、ますますハッスル。「ぼく、こんなこともできるよ!」「わたしはねえ、こんなことも!」

YouMeさんがすごいすごいと、赤ちゃんの我が子に語りかけるように言ってると、そのうち子どもらが「その子、おばちゃんの子?」「そうなの。一緒に遊んでくれる?」「いいよ!」赤ちゃんと一緒に遊んでくれる。
よその子の面倒を見るなんて珍しい、と思ったその子らの母親が近づいてきて。

「うちの子面倒見てくれて、しっかりしたお子さんですねえ!」と驚くYouMeさん。すると我が子をほめられて嬉しいからか、YouMeさんに親しく声をかけ、いつの間にやら仲良くおしゃべり。
私はその様子を見て、驚いた。「そうか、人と仲良くなるのに、自分が賢い必要なんかないんだ!驚けばいいんだ!」

それからは人に劣後することを恐れなくなった。むしろ劣後することは人の優れた点に驚くのに都合がよい。驚けば人は心を開いてくれる。劣後は驚くのにとても都合のよい特徴。そう思えるようになった。

どんなことからも学びは得られる。人と比較するようなものは学びのごく一部。人と比較して優位を保つというのはしんどい。そんなことを気にせず学びを楽しむことができますように。そう祈りを込めながら、このスレを終了。

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