私達はほとんど「生産」はしていない、「消耗」してるだけ

「生産」考。
藤井一至さんが重要な視点を提供してくれたので、少しそれについて考えてみたい。
インドはコットン(木綿)を手で収穫しているという。それをオーガニックコットンとして付加価値高く売ってるわけだけど、その収益はインドの農家に届いているわけではない。

流通・加工の下流に位置する人たちが、オーガニックコットンのブランドで得た収益を吸収してしまうためで、最上流に位置する農家までその収益が届かない、と。
では、インドの綿花栽培でも機械化を進め、生産性を上げたらどうなるだろうか。たぶん、多くの人が仕事を失う。

機械化して少人数でもこなせるようになると、農家と言っても経営者としては、雇用を減らして少人数で仕事をこなすことで、さらに利益を上げたくなる。つまり機械化で生産性を上げるということは、雇用吸収力を減らすということ。あぶれた失業者はどこへ向かえばよいのか?

先進国は、農業の機械化を進め、農家が少なくても食料を大量生産できるようにした。あぶれた人口は工業とサービス業が労働力として吸収した。そんなことが可能だったのは、発展途上国との貿易で収益を上げ、その富であぶれた人々を養うことを可能にした面がある。

では、インドも先進国と同じような手法が取れるのか?インドばかりでなく、中国も同じ問題を抱える。人口の7割が農家と言われる。もし農業を機械化し、生産性を向上させれば、農家はそんなにいらなくなる。あぶれた人口を果たして工業やサービス業で吸収できるのか?

中国とイントで世界人口の約半分にもなる。そんな人口の巨大な二国が、他国との貿易の上がりであぶれた人々全員に仕事を提供することができるのか?難しい、という気がしてしまう。
しかし、上記のような筋書きで経済を捉えると不可能に思えるが、違う視座から眺めると違う景色が見えるように思う。

2つの条件が成立するなら、中国やインドでも、あぶれた労働人口を農業以外の産業で吸収できるかもしれない。その2条件とは、
①すべての人々を養うだけの食料を確保できている。
②すべての人々に食料を分配することができる。

この2つの条件が確保できるなら、あぶれた人口をすべてエンターテイメント産業に吸収してもいけるはず。十分な食料があり、みんなに分配もできるわけだから。あとはみんなでみんなを楽しませるエンターテイメントにいそしみ、それで給料が支払われれば、誰も飢えずに済む。

私は実は、農業と運輸、電気水道ガスなどの生活インフラ、医療や介護などを支える必須の仕事(エッセンシャルワーク)以外は、すでにエンタメ化がかなり進行してるのでは?と考えている。
自動車はただ走るだけではなく、快適さやデザインを重視したエンタメ。ネットはすでにほとんどがエンタメ。

ということは、すでに現代ではエンタメがかなりの雇用をしている。エンタメは、人生を楽しませてくれるものだが、実用性は必ずしもない。だから、実用性を重んじる立場から見たら何もしていない、生産していないに等しい。実用的なものを何も生まずに、食料やエネルギーを消耗する一方。

と、表現すると、エンタメが否定的に聞こえるが、私の真意はそこにない。すでにエンタメで社会に生きる多くの人を雇用している実態があるなら、中国やインドのような国でも、上記①、②の条件さえ満たせるなら、あぶれた人口をエンタメで吸収しても養うことができるはず。

問題は、お金の出し手(資本家や銀行)が「給料渡すんだから必死に働け」という呪いから脱却できないこと。ギリギリまで働く者以外には給料を渡したくない、とすることで、収益をできるだけお金の出し手に確保できるように、という仕組みを手放すことができない。

本当は、①食料と②分配の2つさえ怠りなくできるなら、あとの人たちは遊んでいてもサボっていても飢えずに済むはずなのに、何故か労働者をギリギリまで働かせたくなる仕組みになっている。まるでハツカネズミに、必死に滑車を回さなければエサをあげない、と言ってるような感じ。

しかし、①食料と②分配の2条件さえ担保できるなら、人々はそんなに必死に働かなくていいはず。生産性なんて上げなくていいはず。なのに生産性を上げろ、必死に働け、競争から脱落するぞ、と脅す。何か社会の仕組みが、おかしい方向にデザインされたままなのだと思う。これをそろそろ是正しては。

私は、社会の多くの人々をエンタメ産業に吸収し、人々が無理なく食事ができ、そこそこの生活インフラを享受できるだけの給料を確保できるなら、別に必死に働かなくても社会は回ると考えている。①、②の2条件が成り立つ限り。

そもそも、「生産」という言葉がおかしい。多くの仕事は生産せず、ただ消耗している。資源とエネルギーを消耗している。自動車を「生産」してるつもりでも、地球からすれば資源とエネルギーの消耗でしかない。ほとんどの仕事は生産せず、資源とエネルギーを消耗するばかり。

唯一、生産と呼ぶにふさわしいのは農業。土という資源をわずかばかり消耗し、太陽光という無料で無限のエネルギーを光合成で食料に変えて、私達に供給してくれる。まさに農業は、「生産」していると言える珍しい産業。ただし。

農業も今や、資源とエネルギーを消耗する消耗業に成り果てている。石油エネルギー2.6キロカロリーを消耗して1キロカロリーのコメを得るような消耗業。しかもリンやカリなどの資源も消耗している。もはや人類の営みで、「生産」と呼ぶにふさわしい行為は存在しないと言ってよい。

しかし、当面はやむを得ない。化学肥料とトラクターという、石油エネルギーを消耗する形でないと、世界人口を養うことは難しい。もし化学肥料がなければ、地球は人類を半分(30-40億人)しか養えない。惨劇を招かないためには、人口が十分減るまで、化石エネルギーにある程度頼らざるを得ない。

まず私達は、「生産」という言葉が実は生産しているのではなく、資源やエネルギーを「消耗」しているに過ぎない行為だ、という視座に立つ必要があるように思う。すると、資本家などのお金の出し手が「生産性を上げろ!必死に働け!」と労働者をしばく声の滑稽さが浮き彫りになるように思う。

①食料と②分配さえどうにかなるのなら、私達はそんなに必死になって働かなくてもよいのだ。社会はすでにそんなに実用的でない仕事で構成されている。人々を楽しませるエンタメ化が多くの仕事で進行している。ならば、もっと楽しそうに取り組めばよいのに、と思う。

どうせ私達の多くの営みが消耗でしかなく、生産では全然ないのなら、ハツカネズミの滑車回しとさして違いはない。でも、エンタメは楽しい。人々を楽しませる力がある。ならば、もっと楽しみながら働いたらよいのだと思う。

他方、①食料と②分配を担当する農業、運輸業がしっかり機能するようにする必要がある。私は、いっそ仕事を「義務」ではなく「権利」に変えてもよいのでは、と思う。選ばれしものだけが就くことができる仕事。怠るとエンタメ業に配置転換され、農業や運輸という名誉職を剥奪される、というような。

そうした構造だと、農家や運送業に就きたがる人が確保できるように思う。特に優秀な人が就くので、全人類を養うことができる食料と、見事な分配が可能になるかもしれない。

こうして①食料と②分配が確保できたら、あとはエッセンシャルワークとエンタメ業の人々に、しっかりお金を分配する。お金の配り方のルールは、人々を喜ばせたものほど多く、でも構わない。でも、誰もが飢えずに済むお金は配られるように。

こうした基本設計をどうにか実現できるなら、①食料と②分配を確保できる限り、全人類を養うことの困難さが減るように思う。そして、資源とエネルギーの消耗をできるだけ抑えた社会システムに改良を続ける。それが当面の人類の目標なのではないか、と考えている。

ただ、人類が生き延びるための基礎条件をシンプルに考えてみたけど、現実社会との差は甚だしく大きい。このギャップを埋めるのは絶望的にも思える。ただ、私達はビックリするくらい、信じなくてもよい思考の枠(思枠)を信じ込まされ、馬車馬のように働かせられている。

でも、繰り返すように、①食料と②分配がきちんと機能する条件さえ確保できるなら、どうせほとんどの仕事は消耗業でしかなく、生産ではないのだから、そろそろこれまでの「思枠」から脱却する作業を始めてよいように思う。ゴマメの歯ぎしりを精一杯鳴らして、それを始めたいと思う。

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