子どもが能動的に学習するまでの事例集

どうやったら子どもが勉強するようになるのか?という質問が複数。いくつか事例を紹介してみようと思う。
私の父は二つの小学校のガキ大将(どうやって?)だったのだけど、一緒に遊んでた悪ガキが、中学に入ってしばらくすると学年でダントツの1位になったという。

その同級生は、父親から「中学生になったら、お父さんと机並べて勉強するぞ」と言い渡されていたという。で、仕方なく毎晩机に向かっているうちに、宿題でもするか、試験前の勉強でもするか、となるうち、学習が楽しくなってきて、瞬く間に学年一番になったという。

私もそれに近いことを。中学2年の冬、ある事件をきっかけに、父が受験勉強(証券マンになる資格試験)をしてる横で机を並べることに。それまで勉強する習慣なんかないから、とにかく落ち着きがない。イスをギーコギーコ。のけぞったり突っ伏したり。教科書の間にマンガ挟んで読んだり。

しかし父は私がサボってるのに気づかないはずはないのだが、脇目も振らず、ものすごく集中して専門書に目を通してる。なんだか落ち着きの無さ過ぎる自分が恥ずかしくなって、「仕方ない、宿題くらいはするか」となってきた。それでも落ち着きはなく、心の中にはチェッカーズが流れていた。

試験一週間前に勉強したことなどそれまで一度もなかったのだが、机の前に座っているとともかく手持ち無沙汰。ヒマ。仕方なく、比較的拒否感のない理科だけ勉強することに。それでも心の中は、好きな女の子の顔を思い浮かべたり、上の空の時間の長いこと、長いこと。

それでも横を見ると、父が一心不乱に勉強してる。私がチラ見してるのも気づかないはずはないけど、一切脇目を振らない。恥ずかしくなって「しゃあねえな」と、教科書に向かう、というのを繰り返した。
そしたら、理科でこれまでにない点数とれた。自分でもびっくり。

次の定期テストでは、理科の次に拒否感の薄い社会も少し手を出してみることに。今まで一切勉強したことのない人間がやるようになるものだから、ガンと点数が上がる。楽しくなってきて、中3になると、大嫌いだった英語や数学も少しは点数伸ばそうと画策。

私がもはや自発的に学ぶようになったのを見て、また自分の受験勉強が終わったこともあって、父は勉強から離脱。隣の部屋で寅さん見てゲラゲラ笑うように。私はすっかり学習習慣が身について、夜九時になったら机に向かうようになった。

私が高校生になると、従弟が受験生に。従弟は私と違って勉強しなくても、勉強していた私とほぼ同じ成績という羨ましい学力だったけど、志望校に当落線上ということで、テコ入れが必要に。しかし気の強い従弟が私の教えを受けるとは思えない。父からは「ただ座っていればいい」と言われて、その通りに。

私は従弟の後ろで身じろぎもせずに勉強。従弟は時々集中が切れるけど、私が黙々と勉強してるのを見ると意地になって勉強。教科書をひたすら繰り返して読む、過去問5年分を繰り返し解く、という指示だけ与えてほったらかしていたら、本番ではかなりの高点数(自己採点で)。無事合格した。

「一緒に勉強する」というのは、かなり有効な方法。「勉強しろ」と口だけで命令するより、「一緒に勉強しよう」というのは、意外と子どもも付き合う。思春期であっても、前もって一年前くらいから宣言しておくと、すごくイヤ〜そうな顔をしても、案外つきあう。

そして、あれこれ教えたり口を出したりするより、「集中して勉強するとはこういうことや」という見本を見せるのが効果的。集中してないのを注意するのは、自分が集中していない証拠。子どもが集中力を欠こうが、落ち着きなさそうであろうが、集中しまくる。

そんなこんなを一ヶ月も続けると、落ち着きのない子どもでもそれなりに集中できる時間が増えていく。3ヶ月もするとすっかり習慣化する。何よりも学習が進むやり方ではないかと思う。私も子どもが中学生になったら、これをやろうかな、と思っている。

成績をあれこれ言わなくていい。集中して勉強しろとも言わなくてよい。教えようとしなくてよい。ただ、一緒に机を並べて、同じ空間、同じ時間を同じように過ごす。お見本を見せながら。それだけで子どもは学ぶようになるし、できなかったところを「できる」に変えていく。それが自信になっていく。

もう少し事例を。その学生は卒業間際になると不登校になるのを繰り返して、もう2年も卒業を逃していた。その学生が私のところで卒論研究をすることに。しかし何を聞いても「はあ」「わかりません」だけで、無気力のカタマリ。のれんに腕押し、糠に釘。それで2年も棒に振ってきたらしい。

この学生は、私があれこれ言っても耳に入らず、指示の半分もできないことが、受け答えしてすぐにわかった。まずは気力、意欲を取り戻さないとどうにもならない。そこで、ダメでもともと、以前から抱いていた仮説を試してみることにした。一切指示を出さず、教えないという指導法。

ある現象を目の前にして、「これ、どうなってると思う?」と訊くと、案の定「わかりません」という返事。私は「そうだね、僕も初めて目にする現象でわからない。とりあえず気づいたことを列挙していくことにしようか。ここ、どうなってる?」と、具体的な点を指差して訊いてみた。

ある現象を目の前にして、「これ、どうなってると思う?」と訊くと、案の定「わかりません」という返事。私は「そうだね、僕も初めて目にする現象でわからない。とりあえず気づいたことを列挙していくことにしようか。ここ、どうなってる?」と、具体的な点を指差して訊いてみた。

「こうしたらわかるのではないでしょうか?」と、妥当な仮説が浮かんでくる。「いいねえ!じゃあそれ、試してみようか?」と言うと、自分の口から出たアイディアだからか、ちょっとやってみたくなってるらしい。嫌がらずにその実験に取り組む。それまでのやり取りでかなり観察してるものだから。

迷わずに実験できる。結果を見せてくれるとき「どうだった?ほう、ほう」と、本人が能動的に取り組んだことに嬉しそうな反応をしてみせると、少し楽しそうに。「じゃあまた、何が起きたのか、一緒に見ていこうか」。私が訊いては答えてもらう。現象が見えてきたら仮説を述べてもらい、ゴーサイン。

こうしたことを続けてると、一ヶ月もすると、こちらが促さなくても「ここ、こうなってますね」と、自ら気づいたことを口にしてくれるように。仮説も進んで言ってくれるようになった。3ヶ月ほど経つと「こういう結果が出たので、次にこんな実験やってみたいです。やっていいですか」と言い出した。

私はもちろんゴーサイン。あとは時折相談に乗る形で、自発的能動的に実験するようになり、卒論はおろか、修士まで進む気になり、大学院を卒業、就職も一部上場企業に決めてきた。
能動的に観察し、仮説を立て、実験してみる、という行為の楽しさに気がつき、すると勝手に能動的になった。

人間は、能動的に動いてみて物事が解決に向かっていく、あるいは知らなかった事実が明らかになっていくのを体験するのは、とても面白いことらしい。その学生は、すっかりそのことを忘れていたが、研究をする中で未知が既知に変わっていく快感を知って、能動性を取り戻した。

もう一人、事例を。その子は公立中学で最下位クラスの成績。下から2番目。ただ、調べてみると分数ができるなど、小学校の内容は基本的にわかってるようなので、中学1年の内容からスタートすることに。「この問題を解いてごらん。わからなかったら教科書を開いて」と言って、横で新聞を読み始めた。

「ねえ、ヒントちょうだい」と言うのでいったん新聞を閉じ、正面向いて「教科書を読んでごらん。君ならわかるから」と言ってから、また新聞を読み始めた。「え〜、ちょっとくらいヒントくれてもいいでしょ!お願い!」また新聞を閉じて「教科書を読んでごらん」と答え、また新聞に戻った。

それでも何か私からヒントを探り出そうと、教科書をパラパラめくりながら「このあたり、かなあ・・・」と言いながら、私の目の色を探る。私は「そう思うなら、そこ読んでごらん」と言った。やった、アタリだ思って読み始めると、見当違いの場所。「ケチ!ちょっとくらい教えてくれてもいいでしょ!」

私は新聞を閉じ、「大丈夫、最初から教科書を読んでごらん。君なら必ずわかるから」と伝えた。すると「わ、か、ら、な、い、と言ってるのに!」と怒り、泣き始めた。私は真剣な声で、静かに「大丈夫。君ならわかる。落ち着いて、教科書を最初から読んでごらん」と伝え、新聞を読んでた。

30分ほど泣いてたろうか、少し落ち着くと、は〜!と、これみよがしなため息をついたあと、仕方なさそうに教科書をめくり始めた。すると、問題とそっくりな例題が最初の方に書かれてることに気がついた(そりゃそうだ、最初の単元の問題出したんだから)。
「先生、これ、似てる」

「おう、よく気がついたな。そこの例題、よく読んだら解き方わかるから、それから問題解いてごらん」
しばらくじっくり読んだあと、例題を参考にしながら問題を解いた。「先生、できた」
丸つけし、「よく自分の力でやり遂げたな」と少し驚いたように言った。

「いやここ、そっくりだと思ったんだよね!」と、打って変わって誇らしげ。「その調子で、次の問題も解いてごらん」と言うと、「うん!」という返事。
その後は、教科書をよく読んで解き方を理解し、問題を解くというスタイルが身についた。その頃に少し「意地悪」してみた。

「あ、そこ難しいやろ、教えたろか」と声をかけると「ダメ!教えないで!自分の力で解くから、ジャマしないで!」と、邪魔呼ばわり。自力で理解し、解き方を解読し、解いてみせることの快感に目覚めて、教えられるというのはその快感を横取りされる行為に変化していた。

いったん学ぶ楽しみから離れ、嫌気がさしてる子どもの場合、それを思い出してもらうには多少時間がかかるし、手間もかかる。しかし、学ぶ楽しみを忘れているからといっても、思い出せないわけではない。自力で解決していくことの楽しさ、自分で解決の仕方を探る楽しさを思い出せば、自力で動き出す。

大人は、それを少し手助けするだけでよいように思う。なるべく、本人が自力で解決する喜びを邪魔せずに済む程度に。そして、自力で解決する楽しみに気がつきさえすれば、あとは自走する。そこまでのアシストだと心得ておけばよいのでは、と思う。

一つ追記。冒頭の事例のように、一緒に勉強するに際して、決して「監視者」になっちゃダメ。それでは逆効果。子どもは親の視線が気になって勉強どころじゃなくなる。その目線が恨めしくて、やる気も失せてしまう。あくまで、子どもそっちのけで自分が集中して勉強することが大切。

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