なるべく「教えない」ことで自力で工夫、挑戦、発見を楽しむ余地を大きく残す

私は「教える」という行為を、ともすれば子どもから楽しみを奪ってしまう行為だと考えている。
推理小説を読んでる人に「真犯人はね」と教えてしまったり、映画を見てる人に「クライマックスはね」と教えるのはひどい意地悪。「教える」という行為は、これから解き明かす楽しみを奪ってしまう。

学年最下位クラスの子どもを指導することになった。その子は多動症(ADHD)の傾向が強く、教えても「わかったわかった!」と安請け合いして、すぐに忘れるし間違えるのを繰り返していた。忘れてもまた教えてもらえばいいや、と考えてるのでちっとも記憶が定着せず、学習が積み上がらなかった。

そこで「教えない」ことにした。幸い、読む力はあるので、「分からなければ教科書を読んでごらん」と言って、横で新聞を読んでいた。
「ねえ、分からない。ヒントちょうだい」と安易に教えてもらおうとするので「教科書を読んでごらん。君ならわかるから」と言って、また新聞に戻った。

「このあたりかなあ・・・」と言いながら教科書をパラパラ。私の目を窺いながら。「そう思うならそこを読んでごらん」というと、やった、アタリがついたと喜んで読み始めたら、明らかに見当違いな場所。
「意地悪!ちょっとくらい教えてくれたっていいでしょ!」
私はいったん新聞を置いて。

「大丈夫、君なら読めばわかる。教科書を最初から眺めて、似てるところを探してごらん」そう言うと、また新聞を読み始めた。
その子は「わ、か、ら、な、い、って言ってるのに!」とキレてしまい、号泣。
私は再び新聞を置き、「大丈夫、君なら読めばわかる。教科書を読んでごらん」

泣き疲れ、「この人は本当に何も教えてくれないんだ」と思ったのか、はああ!とこれみよがしなため息をついたあと、仕方なしに教科書を開き始めた。すると最初の方に、解こうと思っていた問題に似た例題が載っている。
「先生、ここ似てる」

「よく気がついたね。時間がかかってもいいから、そこ読んでごらん」
じっくり例題を読み込むと、解き方がわかったらしい。例題のマネをして問題を解き始めた。
「先生、解いてみた」
どれどれ、と私は答えを見て、大きな花丸。
「よく自分の力で解けたな」と言うと。

「いやあ、ここ、似てると思ったんだよね!」と大興奮。
「この調子で教科書を読み進めながら解いてごらん」というと、「うん!」と力強い返事。その後は自分で教科書を読み進め、問題を解くように。
そうしたスタイルが出来上がった頃、今度は逆に私が「それの解き方はね」と教えようとすると。

「待って!教えないで!自分で解き方見つけるから!」とすごく嫌がった。自分の力で解き方を見つけることの快感を知ってしまったその子は、どうしても自分の力だけでは理解できないことを除き、なるべく教えてもらわずに解き方を自分の力で見つけたいと願うように。

私がやっていたのは、ずっと横で新聞を読み、新しい分野でも自分で解き方を理解する子どもの様子に「またしても自分でよくできるようになったな」と驚いてみせること。全くと言ってよいほど教えなかった。ただ、その子の進捗にその都度驚いていただけ。

自分で工夫し、挑戦し、発見することの楽しみを知った子どもは、教えてもらわずに自分の力で解決方法を探るというゲームに熱中する。横でその様子に驚いてくれる大人が一人いれば、そのゲームの楽しみは倍加する。

「教える」という行為は、自分で解き方を工夫したり発見する楽しみを奪ってしまうし、驚いてくれる人を失う、という残念な面もある。教えてもらえば、たとえできるようになっても功績は教えた人に。むしろ恩義を着なければならない分、損をした気分。「教える」という行為は、二重、三重に面白くない。

ただし、「教えなさ過ぎ」はダメ。
昔、ある若者が、就職したてにも関わらず「何か新規事業を始めろ、何をしても構わない」と、誰もいない一人部署に。つい昨日まで学生だったのに。何から手をつけたらよいのか分からず、プレッシャーから不眠となり、統合失調症になってしまった。

どこから道筋をつけたらよいかのヒントは指し示す。しかしあとは自力で辿り着けそうなら本人に任せる。どうにも本人だけでは気づかない場合に、最小限だけアシスト。なるべく本人が自分の力で成し遂げたと思える部分を大きく残すようにする。

肝腎なのは「教えない」という自分の振る舞いを気にすることではなく、子どもが自分で工夫し、挑戦し、発見する楽しみをなるべく大きくできるように、損なわないようにすること。そのため、教える以上に教えない部分の拡大を意識し、子どもが自力で一段上がったら驚き、喜ぶ。

そうして自力で解決していく快感が最大になるように心がける。それが指導者に求められる要件なのかな、と思う。

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