「日本のコメは高い、安くしろ」は本当に正しいのか?

昨今の有識者からは「日本のコメは高すぎる」という意見しか聞こえてこない。アメリカやフランスで生産されている小麦やトウモロコシは、コメと比べて圧倒的に安い。同じコメでも、タイや中国産などはずっと安い。日本のコメがかなり高い、というのはウソではない。ただ。

かつての「牛肉・オレンジ自由化」のことを思い起こすと、コメの高価格路線というのは、実にユニークな解決方法だったのではないか、という気もする。
1988年、牛肉とオレンジの輸入自由化が決まった(実施は3年後)。この時、日本では大騒ぎだった。畜産農家が破産する!ミカン農家が破産する!と。

なぜなら、アメリカ産の牛肉、オレンジはひどく低価格で、とても日本の肉牛やミカンが太刀打ちできるとは思われないほどだったから。アメリカと同じ価格帯ではとてもやっていけない。このため、日本の畜産とミカン農家は滅んでしまうとまで言われていた。ところが。

日本の畜産とミカン農家は、その難局を乗り切った。その戦略の中心は、高級化路線。牛肉はサシの入った高級牛肉を生産する方向にかじを切り、ミカンは糖度が高く、おいしいものを作ろうと品種改良や栽培方法を工夫した。その結果。

牛丼屋やハンバーガーなどの加工牛肉では安い輸入牛肉が使われたけれど、霜降り牛肉などの高級牛肉は海外産の赤肉とは別物としてすみ分けることに成功、日本の畜産は何とか生き残った。
また、ミカン農家も、オレンジが果汁を取るにはよいが皮をむいて食べるのには向かないことから、

輸入オレンジはジュースなどの加工用で主に使われるようになり、生食用のミカンは、高級路線を取った国産ミカンが愛好されるように棲み分けができた。高級化路線が、滅ぶと言われていた国産牛肉やミカンを生き延びさせる戦略として有効だったのだと言える。

コメもそうした面があるように思う。コメはササニシキやコシヒカリといった味の良いコメが生まれ、さらに全国的に品種改良が進められた。その結果、価格は高いかもしれないけれどそれに見合う味の良いコメが作られるようになった。ここまで国産のコメが生き残れたのは、高級化路線があったからだろう。

それに、日本のコメの価格の高さを批判する声が大きいけれど、「ヨーロッパは実のところどうなのよ」というのが気になる。昨今のヨーロッパに旅行をすると、食事を安く済ませようとしても、日本でなら五百円程度で済むような食事でも二、三千円くらいは軽く飛んでしまうという。食事にえらくお金がかかる。

YouMeさんとの新婚旅行はイタリアで、もう10年以上の前、比較的円高の時に行ったのだけれど、ローマで立ち寄ったスーパーで、パスタの価格を見たけれど、そんなに安くなかった。日本より種類が豊富という魅力はあっても、値段は変わらなかった。円安の今なら、かなり高くなっているだろう。

フランスから輸出されている小麦は、国際価格で販売されているから、アメリカなどとそん色のない非常に安い価格のはず。また、国内価格と国際価格が一致することが求められているから、フランス国内、EU域内でも国際価格で小麦は売られているのだろう、と思われる。なのにパスタは高いのはなぜか。

恐らく、人件費がかかるからだろう。小麦は粉にする加工と、パスタに加工したり、パンにして焼く工程が必要。その時、人手がかかる。その人件費を価格に乗せると、パスタやパンの価格は決して安いものではなくなってしまうのだろう。結局、消費者が食べるものは決して安くないようだ。

そう考えると、日本のコメが本当に高いのか、少し考え直してみてもよいように思う。コメは炊飯器に水を入れてスイッチを押すだけで、比較的手間がかからない。うどんでも水で練って切って湯がいて、という手間暇かかる。そう考えると、加工をあまりせずに食べられるコメは、有利な面も。

それに、日本人の好むコメはジャポニカと呼ばれる品種で、タイなどで安く輸出されているインディカとは異なる。インディカは、それに適した調理をするとおいしいが、日本人の好む炊飯という調理法ではあまりおいしくない。炊飯するなら、日本のコメは、かなりおいしいように思う。

このように考えていくと、果たして日本のコメは高いのか?ということにも疑問が湧くし、安くしろ、なんて言ったら、今のおいしい品質を維持できるの?という疑問もわいてくる。有識者の多くがコメの価格が高すぎる!と批判するの、ちょっと考え直しても面白いのかもしれない。

一つ忘れてはいけないと思われるのは、コメや牛肉、ミカンがとった高級化路線というのは、日本が豊かだったからとれた戦略だった、ということ。牛肉・オレンジ自由化が決まった1988年はバブル経済真っ盛り。日本社会が豊かだったからこそ、高級化路線にかじを切ることができたのだろう。

ところが日本はバブル崩壊後、30年にわたる経済低迷に苦しんでいる。ヨーロッパやアメリカが順調に経済成長しているのに、日本はずっと経済成長できず、デフレ経済に苦しんできた。あまりにデフレに慣れ過ぎて、安いものにすぐ手が伸びるようになった。

「コメを安くしろ!」という有識者の声は、家計が苦しい消費者にウケることをどこかで意識したもののように思う。コメが安くなれば消費者はそれだけ生活費が浮くようになり、メリットがあるじゃないか、というわけ。けれどこれこそ、デフレスパイラルから抜けられない構造そのものではないか。

安いものに手を出すばかりになれば、メーカーは製品をさらに安く売ろうと「経営努力」をする。すると、従業員の賃金を抑えたり、正社員を減らして派遣社員にして、人件費を圧縮しようとする。すると給料の減った人が増えて、その人たちは財布のひもを締める。つまり消費が減る。すると。

メーカーはもっと安く売ることで売り上げを維持しようとし、そのせいで従業員の給料がさらに安くなり・・・と、デフレスパイラルが止まらなくなってしまう。ここ30年ほど続いてきたデフレ経済は、そのようにして進んできたのではなかったか。

だとすると、「コメを安くしろ!」という掛け声も、少し眉に唾つけて聞いたほうがよいのではないか。コメを安く作れば、農家の手取りは減る。農家の収入が減れば、その人たちがものを買わなくなる。すると社会全体の消費が冷え込み、デフレの一因になりかねない。

また、もし仮にコメが大幅に安くなったりしたら、経営者はまたぞろ「給料を下げてもこれだけ安いコメなら買えるし、食っていけるだろう」と考え、給料を減らしたくなるかもしれない。コメを安くしろ、という要求は、日本をデフレの渦の中に叩き込め、という掛け声になりかねない。

だとしたら、コメを安くするという戦略は、もう少し慎重に考えてもよいように思う。コメを安くするのではなく、値段をそのままで、さらに品質を高めるという方向でもよいだろう。また、コメの価格がそのままでも人々が買うことができるくらい、給与水準を上げたいところ。

「価格を下げよ」という要求は、デフレ経済の原因になるということを私たちは長い経験で学んだ。ならば、価格を下げる方向での競争は、ちょっと回避したほうがよいのではないだろうか。価格を下げるのではなく、品質の高さで競争する方が、経済的にはよいのではないだろうか。

もちろん、そのためには、日本に住む人々の給与水準が上がることが大切。給料が増えれば消費を減らさずに済む。消費が減らなければメーカーも従業員の給料を減らさずに済む。こうした循環で、デフレ経済からの完全な脱却を目指したほうがよいように思う。

「コメを安くしろ!」という掛け声は、もしかすると「もう一度デフレ経済に戻せ!」という企みのように聞こえなくもない。そうした慎重さを持ったうえで、コメをとらえ直しても面白いのかもしれない。

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