アダム・スミスと子育て

アダム・スミスの「見えざる手」(「神の手」とも表現される)は、子育ての「あまり手出しし過ぎなさんな」に似ているな、と考えている。子育てでは、手出し口出しをやり過ぎると子どもが指示待ち人間になったり、無気力になってしまう。子どもが自発的能動的に動こうとするのを邪魔するのはよくない。

スミスの生きた時代は重商主義と言って、国家がやたら商売に関心が強く、口出し手出しが多かった時代。スミスは様々な事例を分析した結果、政府が口出し手出しをしすぎるとかえってうまくいかなくなることが多いから手出ししなさんな、現場の人間に任せておけ、と提案。それが見えざる手。

スミスの言いたかったことは、「老子」にある言葉、「国を治めるには小魚を煮るときと同じように、あまりいじりなさんな」(大国を治めるは小鮮を煮るが如し)ということだと思う。細かく指示を出したりコントロールしようとすると、小魚が煮崩れするのと同じで、かえってうまいかない。

小魚を煮崩れさせず、きれいに煮ようと思ったら、あまりいじらないこと。これがアダム・スミスの言いたかった「見えざる手」だと思う。
ところで、新自由主義の人たちは、「見えざる手」を拡張して解釈し過ぎ。政府は一切手を出すべきでない、規制はできるだけ撤廃したほうがよい、と主張する。

しかしアダム・スミスはそこまで言っていない。むしろ必要な規制はすべきだとも主張している。小魚を煮ようとすれば、鍋の中に小魚をきれいに並べ、調味料も加え、火にかけなければならない。あまり小魚をいじっちゃダメだが、煮るための手間暇を惜しんではいけない。

けれど新自由主義の人たちが言っているのは、まるで小魚が自ら鍋の中に飛び込むし、調味料は勝手に注がれるし、誰かが勝手に火をかけてくれると言っているようなもの。鍋と小魚と調味料を放置しておいても、煮えるという現象は起きやしない。起きるのは、誰かが小魚を勝手に持って行ってしまうこと。

子育てもそう。小魚をいじっちゃいけないように、口出し手出しは最小限にとどめる必要がある。けれどそれは子どもを放置するという意味ではない。子どもが学ぶ環境、構造を大人が用意し、その上で子どもが能動的自発的に学ぶことを邪魔しない、任せる、ということが大切。放任放置ではない。

しかし新自由主義の人たちの言葉を子育てに置き換えたら、子どもに飯を食わす必要もないし世話する必要もないし、放置しておけば競争原理で子どもはたくましくなる、と言っているようなもの。それでは子どもは餓死してしまう。無茶。

子どもが能動的自発的に動き、楽しんで学び、成長するような環境を提供することが大切なように、経済も、一人一人の働く人や企業が能動的自発的に動き、活発な商業を行うような環境を政府が保証する必要がある。そうしたおぜん立てまでサボっちゃダメ。

アダム・スミス自身は生涯独身で子育てをしたことがなかったそうだけれど、その経済理論は子育てにも通じると思う。でも、新自由主義の人たちは、スミスの言うことをまともに聞いていないように思う。片言隻句を拡大解釈して、スミスの他の言葉をまるきし無視しているように思う。

子どもを野に放てばたくましく育つ、食事も教育も施す必要はない、と言っているようなもの。無茶過ぎる。そしてアダム・スミスはそんなこと言っていない。子育てにおける口出し手出しを控えるように、ということを言っているのだと思う。

子どもも大人も、口出し手出しが多いと面倒くさくなり、言うことを聞きたくない気持ちが強まり、反発するか、どうしても言うことを聞かねばならない場合は指示待ち人間になって無気力化する。子どもは学ぼうとしなくなり、大人は働こうとしなくなる。アダム・スミスが懸念したのはそこだろう。

人間は、子どもも含めて、能動的に取り組んだことは楽しい。人から言われてではなく、自発的に取り組んだことはのめり込む。ものすごいエネルギーで。スミスは、人間の能動性の力を活かすべきだ、と考えたのだろう。

しかし同時にスミスは、能動性を引き出すことができる環境も大切で、その環境は政府が用意しなければならない、と、経済面では考えた。これは子育てもそう。能動性を引き出せる環境は、大人の側が用意する必要がある。

アダム・スミスの言ったことは、子育てと同じだと考えれば、さじ加減がはっきりするように思う。新自由主義の人たちが唱えた無茶な解釈は、そろそろ考え直すべきだと思う。

いわばサッカーのようなものだ。サッカーはボールを手で持っちゃいけないという厳しいルールがある。そんな不便なルールがあるのに、みんなサッカーを楽しむ。「そんな不便なルールは規制緩和しろ」とは不思議と誰も言わない。むしろ不便さを楽しんでしまう。

そう、ボールを持っちゃいけないとか、相手を殴っちゃいけないというルールを課しても、ルールの中の自由、そして能動性が確保されていれば、誰も不満に思わず、むしろ不便さを挑戦し甲斐のあるルールとして楽しんでしまう。

しかし新自由主義の人たちの言っていることは、手でボールを持っちゃいけないのはよくない規制だ、規制緩和しろ、と言っているようなもの。殴っちゃいけないのは自由を制限しているからよくない、と言っているようなもの。無茶。

人間は、不便なルール、厳しいルールがあったとしても、ルールの中での自由が確保され、能動性が引き出される構造があれば、楽しめてしまう生き物。監督の指示通りに動かねばならないとなったらそのとたんに楽しくなくなるかもしれないけど、監督も手出しできないなら、選手は楽しめる。

アダム・スミスの言いたかったのは、ルールの中での自由(口出し手出しをされない)のことであって、ルールをよくない規制とみなし、規制緩和を求めることではない、と私は考えている。スミスの見方は、いろいろ修正されるべきもののように思う。

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