交付金を減らし競争的資金ばかりにしたことが日本の研究をダメにした
yahooニュースを見ていると、日本って本当に科学研究がダメになっているんだな、と思う。「科学」の分類を選ぶといちおう記事の一覧が表示されるけれど、それぞれの記事の「全文を読む」をクリックすると、「国内」とか「ライフ」の分類に飛ぶ。純粋な「科学」記事はほとんどない。
それは新聞の科学の欄にも当てはまる。私は中学3年生の頃から科学の欄を収集している。もはや37年になるが、当時は、朝日新聞なんかだと、科学の欄に所狭しといろんな分野の発表が掲載されていた。高温超電導とか核融合とか太陽電池、半導体、DNA、タンパク質、etc。
週に3回、夕刊に掲載されていたのに、今は週2回に減り、1回は「環境・科学」と、環境問題と一緒にされてしまった。しかも、1回につき1テーマを掘り下げる、という記事が多い。イラストもデカデカと載せて。昔ならできるだけたくさんの記事を載せようと、悪戦苦闘している感じだったのに。
日本経済新聞もそう。こちらも30年くらい収集しているが、密度がすごく減っている。昔は科学・技術のニュースが紙面にひしめき合って、実に濃密だったけれど、昨今はスカスカ。週に2回の特集記事も、朝日と同じで1テーマのみ。イラストデカデカ。記事の内容も濃い、とまでは言えない。
なぜ科学研究がここまでダメになってしまったのか?おそらく最大の原因は、研究費の配り方を激変させてしまったことだろう。
昔は交付金と言って、研究者に一人当たりいくら、と決まった金額のお金を配っていた。大きな額ではないが、そのお金でそこそこの実験が実施できた。
ところが小泉首相のあたりから、研究予算は競争して分捕りに行かなければならなくなった。申請書を書いて、こういう研究をするから金をくれ、と申請し、採用されたらある程度まとまったお金が配られる。競争的資金というやつだ。この競争的資金を増やすため、交付金は思い切り減らされた。
そしてどうなったか。
・作文のうまい人間が研究費を採るようになった。
・過去に成果を出した人間が研究費を採るようになった。
・予算獲得に時間を取られて、研究するヒマがなくなった。
・若者が研究者を目指さなくなった。
という問題が起きるようになった。
昔の研究者というのは、研究さえできていれば楽しくて、作文が下手な人も結構いた。それでも一定の研究予算は配られていたから、そうした人は黙々と研究に集中することができた。しかしそうした作文の下手な研究者は、予算を全然獲得できなくなった。作文がうまいのは必須の能力になってしまった。
また、研究費を獲得するのは、過去に成果を出した人にくることが多くなった。しかし、研究というのは、成果を出した時点ですでに過去のもの。研究は未来を開拓するものだから、本来、過去の成果なんかゼロでもその研究者がとんでもない発見をする可能性がある。けれど。
競争的資金の審査をする側も、「この研究者、論文を全然書いていないな」と思うと、採用とは言いづらい。お金を配っても成果を出さないんじゃ?と不安になる。この点、過去に論文を書いた人間は、少なくとも作文はできるんだろうから、お金を配れば論文を作文できるだろうと考える。
この結果、過去に成果を出した人間が採択されることが増える。過去に成果を出したことがない人間は、研究費を獲得できない。今は「萌芽的研究」という予算も用意されているけれど、作文がうまくないとこれもなかなか採択されない。
また、予算を獲得したらしたで、報告書を書くとか会議に出るとかで忙しくなり、研究するヒマを失うという、本末転倒なことが起こりやすい。「研究費を配分するからには、それ相応の義務を果たしてもらわないと」というもっともな理由なのだが、その報告書を書くだけでかなりの労力と時間を奪われる。
それに、「この研究費のおかげで論文が書けました」と報告しなきゃいけない。でも競争的資金はせいぜい3年くらいしかもらえない。あまりに挑戦的な実験ばかりしていると、3年目に論文が書けず、ゼロということにもなりかねない。そうなると、「研究費もらったくせに成果がない」とダメ評価が下される。
それでは怖いから、論文をさっさと書けそうな、確実に結果の出る小粒な研究をするしかなくなる。大胆で挑戦的な実験をする気持ちになれなくなる。競争的資金は、確実に論文を書けそうな、つまり結果が出ることが事前に明らかな、つまらない研究を増やす効果が強かった。
交付金の時代には、成果が出ようが出まいが確実に配分してもらえたから、結果が出るのに何年もかかるような挑戦的なテーマにも取り組めた。論文がなかなか書けないような、成果がなかなか出ないような、海のものとも山のものともつかないテーマも選べた。
しかし競争的資金は、成果が出るかどうかわからない挑戦的な研究に取り組む勇気を研究者から奪った。たくさんの報告書や論文を書く必要から、研究する時間を奪った。いいことなしの状態。
アメリカやヨーロッパも競争的資金で研究成果を出しているが、なぜ成果が出ているかというと、大量の移民、留学生を受け入れているから。アメリカに暮らしたい、ヨーロッパに暮らしたいというアジア人などが、斬新なアイディアをもちこんで研究してくれた。だから競争的資金でも成果が出た。
しかし日本の場合、最近でこそ外国人が増えたが、大学や研究室は基本、日本人で運営されていた。海外からアイディアをかき集めるというアメリカやヨーロッパ式をしようとすれば、多額の競争的資金と、経済的に豊かな生活を約束しなければならないが、日本はどちらも提供できない。
日本のような環境では、外部から大量のアイディアを「輸入する」ことができない。ならば、競争的資金ではむしろアイディアを引き出せないことになる。日本の場合は、交付金のような配り方の方が、大胆不敵な研究を増やす効果があるといえるだろう。
しかし交付金を減らし、競争的資金を増やしたことで、もはや交付金では少額すぎて研究できなくなった。とある大学では年間10万円。電話代や蛍光灯の交換で全部消えてなくなってしまう。競争的資金を獲得しないと研究できない。しかしそれをもらうと成果の出やすい小粒な研究しかできなくなる。
こうして日本は、研究成果の出ない国になってしまった。このことは多くのノーベル賞受賞者が懸念し、警告を鳴らしてきた。しかも、交付金を減らし過ぎて、大学の先生を雇うお金もなくなってしまった。博士号を取った学生が研究者になりたくても、そもそも助教になる口がない。無職になってしまう。
この結果、研究者になろうという若者自体を減らしてしまった。競争的資金は、そもそも研究したいという若者を絶滅に追いやるという副作用も強かった。交付金を減らし、競争的資金を増やしたのは、日本から科学・技術を枯らす素晴らしい政策だったと思う。
いま、日本の大学で博士課程に進むのは外国人ばかりになってきた。外国人からしたら、アメリカやヨーロッパと比べるとグレードが低いのだけれど、いちおう博士号はもらえる。本国に戻れば大学の先生にもなれる。しかも日本からも資金援助が出るということで、今や外国人だらけ。日本人の学生見ない。
そのうち、日本の大学は外国人だらけになるだろう。博士号を持つ日本人はほぼいない状態になってしまうだろう。それもこれも、交付金を減らして競争的資金を増やしたことが大きな原因のように思う。
交付金が減る→大学が貧乏に→先生の給料を減らすかポストを減らすしかなくなる→博士号をとっても研究者になれない→博士課程に進む日本人いなくなる
という形で、日本人研究者を絶滅に追いやろうとしている。その主たる原因が、交付金を減らして競争的資金を増やしてきたこと。
私は、今からでもいいから競争的資金を減らして、そのぶん交付金を増やしたほうがよいと思う。交付金を増やせば大学でのポストが増え、ならば博士号を取って研究者を目指そうか、という若者も増える。好循環が生まれるだろう。競争的資金ばかりの現状では、悪循環もよいところ。
このことは私だけでなく、多くの研究者が言っている。ノーベル賞受賞者も。なんで政府が聞き入れないのか、不思議。せめて国公立大学だけでも、競争的資金から交付金へのシフトをしたほうがよいように思う。
※特定の研究者に多額の予算を集中させるより、少額の予算をたくさんの研究者に配分するほうが画期的な研究が生まれやすいという調査結果。
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