「技は見て盗め」に4要件をプラス

(技は見て盗め、というタイプの指導者を根絶させたい、マニュアルも作って丁寧に教えたいという書き込みに対し)
ここ、難しいところで。教えるのがうまい、あるいは親切に教える人のところだと人がかえって育たないという不思議な現象があって。
ろくに教えず、教えるのがヘタだと自覚もあって、頼むから勝手に育ってくれという人のところのほうが人が育つという矛盾めいた現象もあって、単純ではない。

なぜ教えると人が育たなくなるのか?教えられた人は、教えられたその言葉に縛られて、眼の前の現象を観察しなくなる、あるいはできなくなる、ということが起こりやすい。上司の言葉を聞き逃すまいということに必死になって、上司に「聞いてなかったのか』と叱られるのが怖くて、必死になって聞く。

すると、上司の言葉に集中することに必死のため、目の前の現象を落ち着いて観察するゆとりがなくなるらしい。器用な人は切り替えて観察できるのだけど、少し不器用な人は、上司の言葉を聞くだけでエネルギー使い果たして、目の前の現象とさっき教えられた言葉とがリンクしない。別々に思える。

だから目の前の現象にどう手を付けてよいかわからなくなる。パニック。
そこまでひどくなくても、上司の言った通り、あるいは教えられたマニュアル通りにやると、これまた観察しなくなる。マニュアル通り機械的に行うだけで考えなくなり、観察もしないから、理解せずに操作するようになる。

理解してないから、トラブルが起きたときにどう対処してよいかわからない。教えられた人間は、教えられた以外のことが起きるとパニックになることが多い。「どうしたらいいでしょう?」と指示を仰ぎにくる。上司は、いつまで経っても手の離れない部下を抱え続けることになる。

「技は見て盗め」タイプは、案外人を育てる。教えてもらえないから観察するしかない。観察して仕組みに見当をつけ、こうすればこうなるんじゃないかと仮説を立てては検証する仮説思考が自然と身につくことになる。仕組みに見当をつけてるから、予想外の事態になっても「たぶんこうすれば」がわかる。

ただ、「技は見て盗め」タイプは、教えなさすぎ、に陥る場合も多い。いくらなんでもわからなさすぎて弟子もその場を離れざるを得ない場合がある。それに、教えないくせに「ばかやろう!何でこんなことしてるんだ!」と叱る場合、萎縮させるだけ。人がまるで育たない恐れもある。

つまり、「マニュアルも作って懇切丁寧に教える」のも、「技は見て盗め」も、人を本当の意味で育てることができていない、粗雑なアプローチなのかもしれない。
では、どんな風に人を育てたらよいのだろうか?まずはその前に、人はどう育つと「育った」と言えるのだろうか?

・意欲を持って取り組むこと。
・能動的によく観察し、仕組みを理解しようとすること。
ではないか。この2条件を備えるのに、実は一番遠いのは「マニュアルも作って丁寧に教える」。人から教えられたことって、面白くない。ゲームの完璧な攻略法を、やってみる前から教えられるようなもの。

教えられた通りやってみて、その通りできたとして、喜ぶのは教えた人。「どうだ、俺のお陰で簡単にできたろう」と自慢げ。そう、教えるという行為は、功績を奪う行為。実際に手を動かした人間の功績と喜びを略奪する行為。そして、言うがままに動くことを要求される奴隷になった気分にさせられる。

これでは意欲の湧きようがない。関心も湧かないから観察する気も起きない。観察しないから仕組みの理解も進まない。というわけで、「マニュアルも作って丁寧に教える」は、人が実は育たないという皮肉な結果になることがある。

2条件を満たすのに一番近いのは「技は見て盗め」なのだけど、上述したように、教えなさすぎて弟子を混乱に陥れる恐れがある。なので、「技は見て盗め」に、いくつか補足をする必要がある。
まず第一に「見本くらいは見せる」。どうやったらよいのか見本も見せないのではやりようがないのだから。

第二に、「着眼点を示す」。いくら見本を見せたところで、熟練の技は早すぎて目がついていかないことが多い。これではとっかかりがなさすぎ。そこで、どこに注目したらよいか、着眼点を示す。すると、観察する人間は、そこを起点として何をしているのかを理解しやすくなる。

指導する側は、弟子(部下)が今、何をわかっていないか、放置するだけでは気づきそうもないことは何かを察知し、その点を着眼点として示すようにする。示した着眼点が適切だと「あ、だからこうなってこうなるのか」と、仕組みに見当がつくようになる。そうした着眼点の示し方を磨く必要がある。

第三に「問う」。「ここ、どうなってると思う?」と問うてみる。その答えしだいで、どこまで理解できてるか、あるいはできてないかがわかる。こりゃ、何も言わなければ気づきもしないな、と思われたら、着眼点を示す。そのうえでやってみせ、「どうなってるか、気づいたか?」と問うてみる。

答えようとすることで、自然と能動的に観察することになる。そう、「問う」は、相手が答えずにいられなくなるという、能動性を引き出す効果がある。
できれば、こちらが気づいてほしいことを問うのではなく、相手が何に気づいたかだけを問うようにしたほうがよい。

こちらが「そろそろこれに気づけよ」と期待があると、なかなかそれに気づかないことにイライラしてしまう。イライラは不思議なほど相手に伝わる。そして焦り、パニックに陥る。焦りやパニックは、観察する気持ちのゆとりを失うから、気づきが得られなくなる。だから、期待しない方がよい。

それよりは「何か気づいたことがあったか?」と問い、どんな答えでも楽しむようにしたほうがよい。どんな気づきであろうと気づきであり、その人の個性を反映したものでもある。だから、気づきを言ってもらうことはその人の個性をつかむのにも役立つから、気づきを言ってもらうのは。

その人の人となりを知るため、位に思って、どんな気づきでも楽しみ、面白がるとよいように思う。
そして第四に、そうした気づきを口にするたびに「驚く」こと。驚くと言っても、そんな大げさなリアクションはいらない。「ほう」「なるほど」くらいの反応で十分。

否定的でなく、どんな気づきにも肯定的な反応を示していると、「この人にはどんな気づきを言っても否定しない」という安心が得られる。そして「ほほう」と驚いてくれることが面白くて、もっと気づきを伝えようと、観察が楽しくなってくる。観察が楽しいから鋭くなってくる。すると。

本当に驚かされるような気づきを口にするようになる。最初は、いつこれに気がつくかな?と危ぶんでいたのが、急速に仕組みの理解が進み、たどり着いたことに驚く。教えもしてないのに自分でよくぞ気がついた、と、本気で驚くことになる。すると、指導される側は。

言い当てたことが嬉しいので、余計に楽しくなり、よく観察するようになる。仕組みを自分で解明したという嬉しさが、目の前の業務への愛着にもつながる。この結果、意欲的に取り組み、能動的に観察するようになり、仕組みも深く理解するようになる。

だから、指導する際は、「技は見て盗め」にプラス、4つの要件を加えると、意欲的で、観察をよくして、仕組みへの深い理解もできる人材を育てられるように思う。

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