「超人」病?

20歳になってから三年間、自分の棚卸しを実施した。「自己」とはどういう存在か?哲学者や思想家がやってきた格好よいことをやり遂げようと。自分の中に確たるものを見つけようと。自己分析を徹底的に行った。

結果。私はタマネギでした。
むいてもむいても何にもない。

これはある意味、仕方のないこと。たとえば「鉄」とは何か、を理解しようとする場合、どうなるか。
磁石にくっつく。潮風に当てるとさびる。妊婦に必須の栄養素。刀や包丁になる。はかりに載せると重い。銀色に輝く。熱すると赤く光る。等々、鉄と鉄以外との出会い、関係性で理解するしかない。

私たちは鉄そのものを認識することができない。鉄以外のものに出会った時に何が起きるかで、私たちは鉄を認識できる。概念(おおむねの感じ)とはよく言ったもので、鉄本体はアヤフヤにしか認識できない。それは「自己」についても言えて、自己は他者との関係性でしか認識できない。

自己は、他者と触れ合ったときにはじめて認識できる。そうでなければ自己はアヤフヤで、とっかかりがなく、つかみどころがない。どうやら「確固たる自己」というのは、文字面では表現できるけど、実体としてはそんなもんない、把握しようがない気がする。

棚卸しの作業後半のあたりで、自己実現という言葉が流行した。聞いたとき、うわ、格好いいなあ、自己実現できた自己を確立できたら、まるでニーチェの超人(キン肉マンの超人?)ぽくて格好いいなあ、と思った。確固たる自分を確立できたらいいなあ、と。

ところがどうも、自己はタマネギ。芯がないので確固たる自分が作れない。自己はやっぱり、他者との出会い、関係性の中でしか認識できない。これでどうやって自己実現するのん?自己実現って、他者に出会ったとき、迷いがないかのように振る舞う、ツッパリのことなん?

自己実現セミナーを参加してる人たちや、講師の話を何度聞いても、「自己を確立できたフリをしてる」という気がした。私はイケズなので、想定外の問いかけをした。すると、どうしたらよいのか混乱し、慌て、その場をなんとか取り繕うとする。

つまり自己が確立できてるわけではなく、イケズという現象に応じて「慌てる」という自分が現れたということ。自己は、他者との出会い、関係性が変わるたびに、姿を変える。その姿が本当の自分の一つ。お芝居してない自分。
なのにしばしば、自己実現は虚勢を張る感じになっている。

自己実現はたぶん、ニーチェの影響を受けてる。ニーチェは、神への畏れを持たなくなった時代に、神に代わる絶対的な存在が求められるようになった時代に、「超人」を提案した、ように感じている。でも私にはどうしてもやせ我慢、無理して突っ張ってる感じを受けた。何があろうと動じない自分?無理。

ニーチェの超人は、ニーチェが意識してたかどうかは別として、ソクラテスの伝説に影響を受けてる気がする。ソクラテスは真冬でも裸足で、薄着だったことで知られる。敵軍に囲まれても動じなかったことで知られる。死刑判決受けても、自ら毒人参あおって静かに死んだことでも知られる。

実は、超人に似た話、モンテーニュ「エセー」にたくさん載ってる。ソクラテスの逸話はもちろん、セネカが手首切って浴槽の中で静かに死んでいったとか、小カトーは子どもの頃、高い窓から落とすぞと脅されても動じなかったとか。スパルタの少年は腕が焼け焦げても儀式をやり切ったとか。

ニーチェはモンテーニュの影響を強く受けたんじゃないかと言われてるらしいけど、私もそう思う。モンテーニュがかつて、ソクラテスのような超人的存在になろうとした時期に書いた随想録は、まさに超人っぽい。
しかし。なんでモンテーニュはそんな文章書いたかというと。

尿結石になったから。
当時の貴族は、肉食がステータスシンボル。野菜を食べなかったので尿結石にかかる人が多かった。激痛。このため、尿結石になると「もう人生終わりだ」と嘆き悲しむ貴族が多かったらしい。モンテーニュは、なんとか死の恐怖を克服することで、尿結石の痛みに耐える超人になろうとした、という次第。

ところがモンテーニュは旅先で意外な姿を目にした。
ペストは文字通り死に病であり、貴族がかかるとうろたえた姿を見せてみっともなく死んでいった。ところが農民は。
体を動かせる間はいつも通り畑を耕し、いよいよ動けなくなると体を横たえ、静かに死んだ。まるでソクラテスやセネカのよう。

農夫は死のことなんか考えず、ペストにかかっても普段と同じように過ごし、そして静かに死んでいった。過去の偉人たちと同じように。いや、あるいは偉人以上に気負わずに。見栄を張る感じ、無理にツッパる感じがない分、偉人や超人よりすごいではないか。モンテーニュはそう考えた。

モンテーニュは、死の恐怖を克服できれば、尿結石のつらさも克服できるだろうと考え、偉人たちの超人的振る舞いから学ぼうとしたのだけど、農夫たちが静かに従容として死んでいく様を見て、アホらしくなった。確固たる自己を確立しようという試みを放棄した。以後の「エセー」がごっつオモロイ。

現実にはありもしない「超人」をニーチェが思いついたのは、モンテーニュの一時期の気の迷いから出た随想録から着想を得たような気がする。
もう一つ、超人構想の成立をアシストしたのは、プラトンかもしれない。プラトンはソクラテスを主人公にして、たくさんの著作を書いた。

その中で「イデア」ってのが出てくる。たとえば馬には、白い馬、茶色い馬、速い馬、遅い馬、デカい馬、小さな馬、実に様々。でもみんな「馬」とひとくくりにできる。で、プラトンは、馬一頭一頭の個性を省き抜いた純正の「馬」が、馬のイデアだと考えた。そしてイデアこそ、本当の存在なのだと主張。

でもねえ、イデアって、この世に実在しない。そんなものない。人間が頭の中でこねくり回したものでしかない。人間が頭の中で作り出した、仮説という名の虚構なのだと思う。
ダ・ヴィンチは死人を解剖しまくり、たくさんの事例を踏まえた上で内臓の絵を描いている。その際、面白いこと言ってる。

「この絵の通りの内臓をしてる人間は1人もいない」
みんな個性バラバラで、内臓の位置が人それぞれ。一人も同じようではなかったという。ダ・ヴィンチが描いた内臓の絵は、ダ・ヴィンチという人工知能が深層学習した結果生み出した、平均的な位置を指し示したもの。目安でしかないもの。

時代を経て、プラトンのイデア論は批判され、「イデアみたいなアヤフヤなもん、そんなきっちりかっちり存在すると思ったらあかんやん」ということで、現代では「概念」に置き換えられている。冒頭の鉄の話みたいに、他者との出会い、関係性の中でしか、概念は認識できない、ということに落ち着いた。

けれどニーチェの時代は、まだ概念という概念がイマイチはっきりしていなかった。そのためか、ニーチェは、モンテーニュが書き連ねてきた偉人たちの超人的な振る舞いから抽出した「超人」という「イデア」を生んじまったのかもしれない。ありもしないのに。

マズローの自己実現は、プラトンのイデア論、モンテーニュの(尿結石への恐怖を、死の恐怖を克服することで乗り越えようとした)気の迷いの時期の文章、ニーチェの超人思想の系譜から生まれたのかも、という気がしている。

人間は、自然界に存在しない虚構を作るのがうまい、変な生き物。お金は究極の虚構だというのは、「サピエンス全史」でも指摘されている通り。超人思想も、自己実現も、多分、人為的に生み出された虚構なのだけど、いったん言葉に紡がれ、言語化されると、あたかも実在するかのように感じるから不思議。

でもたぶん、確固たる自分を確立する自己実現というのは、オレは悪魔の実を食べてゴム人間になるんだ!に近い、頭の中でひねり出した想念でしかない、気がする。
そんなことを、確固たる芯を持てなかったタマネギ男は思うのでした。

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