「驚けない」人がいるのはなぜなのか

大半の人から「驚く」ことの効用について同意いただけるのだけれど、一部の人から「驚こうとした時点でわざとらしい、演技だとバレて相手はしらける、自然に驚けるはずがない」というご意見もあった。きっとその人にとってはその通りなのに違いない。なぜそんな違いが生まれるのだろうか?

実は、私もそうした人間だったので、そうした感想になるのもわからないではない。私なりに原因を考えてみようと思う。思いつくだけで三つほど原因が考えられるように思う。
・観察していない。
・すべてを意識の支配下に置きたい。
・「賢者スタイル」が習慣化している。
順に考えてみようと思う。

私は「驚く」を勧めてはいるが、わざと驚くことを勧めているわけではない。自然と驚かざるを得ない状態に自分を置く、そうした思考の枠組み(思枠)へ自分の心の状態をスライドさせる、ということを意識して行えば、後は自動的に驚くことができると考えている。

そのためには「観察」が重要。昨日と今日、何が違うのか。子どもの様子、部下の振る舞い、そうしたものをよく観察し、昨日と今日の「差分」に気づこうとすることが大切。すると、「あれ?これ、昨日と違うな」ということに気がつく。そこに気がつくと、ほぼ「驚く」は成功したようなもの。

子どもや部下は、親や上司が「あ、それに気づいてくれたんだ」と分かる。だから、わざわざ「驚く」ことをしなくても、昨日と今日の差分に気づけるよう、よく「観察する」ことを意識すれば、自然と差分に気づけるし、気づいた時点で「驚く」反応を示したようなもの。

ただし、気づかれて嬉しいことと、むしろ「そこ、気づかないでよ」ということがあるもの。だから、観察するには、工夫・発見・挑戦に着目する。すると、「あ、その工夫、気づいてくれた?」「そうなんだよ、それ、誰にも教えてもらわずに自分が発見したんだよ」「そう、初めて挑戦してみたんだ」

差分に気づいてくれた、「昨日まではなかったよね?」という、軽い驚きの反応を示しただけで、子どもや部下は得意げになる。工夫や発見、挑戦に気づいてくれる、驚いてくれると分かった子どもや部下は、「また新たな工夫や発見、挑戦で驚かせてやろう」と企むようになる。楽しいから。

だから、驚こうとする必要はない。昨日と今日の差分に気がつくよう、センサーを鋭敏にする。特に「工夫・発見・挑戦」に敏感に反応できるように観察する。すると、自然に気づきや驚きは発生する。意識すべきは、差分を観察すること。それまで見えていなかったことに気づこうとすること。

しかし、こうした観察が苦手な人がいる。何を隠そう、私自身がそうだった。一つのことに集中すると他が見えなくなるタチ。幼い頃に大きな事故に2度もあって、私の心身は委縮し、恐がるのがデフォルトになってしまった。その結果、危険なことが起きないよう、すべてを意識の支配下に置きたがるように。

しかし、意識は心と身体の操縦がことのほかヘタクソ。このため、すべてを意識の支配下に置こうとすればするほど、チグハグになり、不器用になりがち。こうしたタイプは、勉強ができるかもしれないけれど運動が苦手な人が多い。そう、ご多分に漏れず、私もそのタイプ(ただし中学まで勉強もダメ)。

「観察しろ」と言われたら、こうした意識過剰タイプは、一つのことに集中して他が見えなくなる。この結果、かえっていろんなことに気がつけなくなる。うっかりすると、集中して見ていたはずのものの変化でさえ気づかない。ジッと見過ぎると、かえって変化、差分には気づけなくなる。

剣道では、面とか小手とか打つ場合、「打つ部位を見るな、視線は常に相手の目に置け」と言われる。視線の先は常に相手の目に置くのだけれど、相手の全身、なんなら試合会場全体をユルっと意識下に置き、「俯瞰」する感じ。すると、わずかな変化に敏感に反応できるようになる。

こうした「俯瞰」による観察の仕方は、ベテラン保育士の方も心がけているという。「脳みそにα波が流れているような気分」(落ち着いた気分)で、視野全体で子どもたちを見るような。すると、異変に敏感に気づけるようになるという。かえって一人一人に目を配ると、気づけないという。

意識というのは実に不器用。それについては「新インナーゲーム」に面白い事例が書かれている。テニスのバックハンドが上手くなった生徒に「上手になったね」とほめた途端、ホームランやネット向けばかり打つように。「違うよ、さっきはこんなフォームで打っていたよ」と教えると、余計にぎこちなく。

もはや動きがバラバラになり、ボールは空振り、打てても思わぬ方向へ。生徒さん、頭真っ白。
そこでガルウェイ氏は、指導の仕方を変えてみた。「ボールの縫い目を見て。スローモーションで見るような気持ちで」ただそう指示しただけで、生徒は再びバックハンドを上手に打てるようになった。

これは恐らく、意識が身体の操縦権を手放したからだ。ボールの縫い目に注目しろ、と言われたことで、意識はそこに集中するようになった。すると、身体をどう動かすかの操縦権が無意識に移った。無意識は同時に複数の動きを操縦するのが得意。失敗から学び、調整するのも上手。その結果。

意識が身体の操縦に手出ししなくなり、無意識が「ボールの縫い目を見る」以外のすべての操縦権を獲得することに成功し、生徒は再びボールを適切に打てるようになったのだろう。こうした指導法は、コーチングの基礎にもなっている。

スポーツが苦手な不器用な人は、意識ですべてをコントロールしよう、支配下に置こうとする傾向が強い。このため、すべてにおいて不器用な意識の制御下に入ることで、心身の動きがぎこちなく、不器用なものになってしまう。意識というものが持つこうしたクセ、特徴をよく把握しておく必要がある。

その上で、意識が心身の操縦権を握ろうとするのを阻止し、無意識に委ねる工夫が必要。ガルウェイ氏の「ボールの縫い目を見て」は、意識が視線に引きずられやすい性質があるのをうまく利用した方法。意識に『仕事』を与え、そのほかの仕事が自然と無意識に委ねられるようにした、うまい工夫と言える。

意識は心の問題を解決するのも苦手。過去につらい経験があり、PTSDという症状で苦しむ事例がある。このPTSDの治療法で、面白い方法がある。光る点を目で追いかける、という治療法(EMDR)。すると、次第にPTSDが軽快していくのだという。なぜなのか。

光る視線を追いかけながら、治療者の質問に答えていると、意識は光を追いかけるのに忙しく、「慣れ親しんだ悩みのループ」(あの時ああすればよかった、でもあの時あいつが、でも他の方法はなかったのか、というグルグル思考)をたどることが難しくなり、思考が脱線してしまう。脱線を繰り返すうちに。

悩みのループの轍(わだち)を深くすることがなくなり、思考が発散、いろんな視点から物事を考えられるようになり、軽快していくのだという。意識が悩みを掘り下げ、傷口をつねに新鮮なものにしてしまう状態だったのを、意識に「光を追いかける」という仕事を与えることで、操縦権を奪う手法。

意識過剰な人は、私もそうだったのだが、視野狭窄。視界に入っているのに見えていない。見たいものしか見えない。このため、観察ができない。観察できないから驚けなくなってしまう。観察するには、見るとも見ず、変化、差分にだけ敏感になる、という「俯瞰」の状態を作る必要がある。

こうした「俯瞰」の状態に自分を持っていけるよう、工夫と訓練が必要。意識過剰なタイプは、あまりに「見たいものしか見えない」というものの見方しかしてこなかったため、ちょっと意識して訓練する必要がある。

「俯瞰」の状態とはどんな状態か、もう一つ事例を紹介したい。「荘子」に出てくる、庖丁(ほうてい)という料理人のエピソード。牛1頭を王様の目の前で解体して見せた。まるで音楽に乗って踊るかのよう。スパスパ解体されていくのを見て王様感激。「さぞかしよく切れる包丁なのだろうな」と聞いた。

すると庖丁は「私は切りません。普通の料理人は切ろうとします。そのため、刃がスジや骨に当たり、欠けてしまうので、毎日のように包丁を研ぐハメになります。私は牛をよく「心の目」でよく観察します。すると、スジとスジの隙間が見えてきます。そこにそっと刃先を差し込むと、ハラリと肉が離れます」

「私は切らず、刃先を隙間に差し入れるだけだから、もう何年も研いでいませんが、包丁はますます切れ味を増しています」と答えたという。
なぜ普通の料理人は、刃先がスジや骨に当たってしまうのだろうか?それは恐らく、目の前の牛を観察するのではなく、頭の中の牛を切っているから。

牛の筋はこう走っているに違いない、骨はこうなっているに違いない、と、頭の中の牛通りだと決めつけ、「意識」して切ってしまう。すると、目の前の牛と違うものだから、刃先が当たって欠けてしまう。でも、庖丁は、これまでの経験をすべて忘れ、頭の中からも消して、目の前の牛を観察。

観察の結果、自然と心の中に湧いて出てくる「ここに隙間がある!」という発見に従って、刃を差し入れるだけなのだろう。だから切るという感じではなしに肉が離れてくれたのだろう。私たちは、意外と頭の中の先入観に従ってモノを見ることが多い。これはこうに違いない、と、過去の知識で判断。

これが観察の邪魔をする。知識や経験がかえって観察の邪魔をし、見ているのに見えなくなる。頭の中の妄想を真実とみなし、目の前の現実を妄想に従わせようとしてしまう。これが「普通の料理人」の状態なのだろう。庖丁は、どれだけ経験があってもその経験を忘れることができる人だったのだろう。

その意味で、「賢者スタイル」になじんでしまっている人は、観察が下手なことが多いように感じる。何を隠そう、私自身がそれだったのだけれど。頑張って知識を詰め込み、目の前の現象を過去の知識で全部料理してみせる。知識不足の人からは感心してもらえることも多いので、なかなか魅力的な武装。

けれど、これはいわば「知ったかぶり」の状態。目の前の現実は違うと言っているのに、それに耳をふさぎ、あるいは馬耳東風で受け流し、手持ちの知識で料理し、長い時間かけて磨いた屁理屈の力で相手を「論破」してしまう。いくら論破しても、目の前の現実は現実のまま存在しているのに、それで得意に。

この状態は「プロタゴラス」と呼んでよいだろう。古代ギリシャで一番の知者と呼ばれたプロタゴラス。そこにソクラテスが訪れた。「一番賢いのはソクラテス」というデルフォイの神託が信じられず、ソクラテスはプロタゴラスと問答してみて神託の真意を探ろうとした。すると。

プロタゴラスはソクラテスの質問に何でも見事にこたえて見せた。「それはね」と、実に滔々(とうとう)と。普通の人間なら、その見事な弁舌にすっかり酔いしれて、感心してしまうところだろう。ところがソクラテスは「問い」を重ねた。現実はどうなのだろう、ということを追究したくて。すると。

プロタゴラスはソクラテスの問いに答えるうち、矛盾した話をするようになった。やがて「実は私は、そのことについては詳しくないのだ」と白状せざるを得なくなった。結局プロタゴラスは知ったかぶりをして、賢者ぶっていたが、現実が何かを観察し、追究しようというタイプではなかったのだろう。

天下一と言われたプロタゴラスを言い負かしてしまったソクラテス。ならば、代わりに天下一を名乗り、若者に偉そうに説教をしてもよさそうなものだが、ソクラテスは、自分よりも知識も経験も乏しい若者の話を聞きたがった。そして驚き、面白がった。

「ほう、それは面白いね!それについてもっと我々は考えてみようじゃないか」と、ソクラテスは若者の言葉に驚きつつ、次の問いを発した。若者は何とか答えようとウンウン考え、答えを絞り出す。ソクラテスはまたしても驚嘆の声を上げ、「では、これと組み合わせて考えたらどうなるだろう?」と問う。

こうしてソクラテスが問い、若者が答える、ソクラテスはその回答に驚き、別の知見も組み合わせて再び問う、ということを繰り返すうち、とんでもない思考の深みへと進んでいった。若者は自分の口からそんなにも深い話が出てきたことに驚き、ソクラテスとの対話を快感に思い、慕った。

ソクラテスにとって、「当たり前」のことは一つもなかったのだろう。何もかもが不思議。まだまだ分かって異なことだらけ。分かっているつもりのことも、いざ追究してみると分からなくなってしまう。だからこそ、若者がそう考えているのか、という発見も、新鮮な驚きだったのだろう。

ソクラテスが驚いてくれるから、若者もますます調子が出ていろいろ考え、いろいろ答え、そうしているうち、ソクラテスも若者も思いもしなかった知の深淵にたどり着く。これが楽しかったから、ソクラテスというおじいさんの周りには、常に若者たちが群がっていた。

このように、ソクラテスが問い、若者が答え、それにソクラテスが驚き、さらに問いを重ねる、というやり方で、新たな知が生まれる技術を、ソクラテスは「産婆術」と呼んでいた。ソクラテスが未熟なはずの若者の発言にも驚く人だったから、産婆術は誕生したのだろう。

面白いことに、若者に向けて問うなら、新しい知が創造される「産婆術」になるのに、プロタゴラスのような知ったかぶり、賢者でいるつもりの人間に問いを向けると、その無知ぶりを暴き出す恐るべき「弁証法」に変わってしまう。無知を自覚する者同士なら産婆術になり、驚きの連続なのに。

どうやら、賢者スタイルを貫こうとする人は、「驚いちゃいけない」という「呪い」を自分にかけている様子。驚けば、それはその分野を知らない、無知であるということを告白するようなもの。それではコケンにかかわるから、手持ちの知識を総動員して料理して見せ、ごまかそうとするのだろう。

でも知ったかぶりすると、新たな知識は生まれない。手持ちの知識の量のまま。新しい発見に出会えることはない。賢者スタイルを貫こうとすることは、驚きも失うし、新しい出会いを得ることもできなくなってしまう。でも、これは同情すべき点もある。

不器用だから、勉強に励み、知識を身に着け、その膨大な知識によって尊敬を得てきた、のかもしれない。しかし他人の工夫や発見、挑戦に驚いていたら、自分の無知ぶりを告白するようなもの。それでは知識という鎧がはがれてしまい、再び不器用な人間という柔らかく傷つきやすい中身が露出してしまう。

だから、知らないと告白することができない。驚いたらおしまい、それについて知らないと告白してしまうようなものだと感じてしまい、驚くことができなくなってしまうのかもしれない。「それについてはもう知っているよ」と知ったかぶりをしてしまい、驚けなくなっているのかも。

でも、本当は、武装解除したほうが楽なのに、と思う。知識や経験は、武装解除しても無駄にはならない。より的確な「問い」を発することができるのだから。それによって知性のきらめきを示すことができるだろうから。だから、もっと自信をもって、構えを外してみたらよいように思う。

何でも知っているフリ、分かっているフリをやめ、「俯瞰」する感じで観察し、「へえ、君はそういう人間だったのか」「こういうときはこう反応するのだね、ほほう」と、素直に驚けばよいように思う。すると、相手は「お!知識も経験もある人なのに、気づいてくれた!驚いてくれた!」となる。

相手という人間を観察し、できるだけ相手の工夫・発見・挑戦に鋭敏に気がつけるように「俯瞰」する。そして「お?」と反応すると、もうそれだけでも、子どもや部下は「気づいてくれた」と嬉しくなる。ますます工夫・発見・挑戦で驚かそう、と能動的になる。

私自身が30歳になるまで、観察しておらず、すべてを意識の支配下に置きたがり、「賢者スタイル」を維持しようとしてきた人間だった。でも、そうした「鎧」は「呪い」でもあるな、と気がつき、脱ぐ訓練を続けるようになった。その結果、観察し、驚き、面白がれるようになった。楽しいので、お勧め。

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