「正義」考

「子育ての大誤解」という本に、ある程度の人数の少年たちが二つのグループに分かれ、抗争が起きた事例が。それぞれの集団で「あいつらは」と違いを強調し、「俺たちは」と同質性を確認しあう。そうして違いを際立たせ、仲間には同調を求める。それが「正義」かもしれない。

「正義」が果たす機能として、それに同調する人間には居場所を与える、という機能がある。
定年退職した人から久しぶりに連絡。仕事を引退してからは日本会議で頑張っているという。そんな人じゃなかったのに、と思いながら、どうせならいろいろ聞いてみたくなった。すると見えてきたものが。

定年退職して仕事に行かなくなると、時間を持て余す。奥さんに偉そうにし続けたいけど、家にいると奥さんに嫌がられる。家に居場所がない。日本会議は、そうした男性たちの受け皿になっているらしい。この世代は数が多いから、その一部を吸収するだけで一大勢力。

「良妻賢母」という言葉がその人の口から飛び出してきて驚いた。日本会議の重要なコンセプトらしい。ただし私みたいな観察者から見ると、奥さんに嫌がられて家に居場所を失った定年退職後の男性が、「最近の女性は慎みがない」とか恨み言を言って慰め合い、傷をなめあってるという図にも見えた。

正義は、同じ利害、似たような感情を持つもの同士が「そうだよね、こういう問題はこうだよね」と同調しあい、俺たちは仲間だ!と確認しあうための接着剤。その接着剤と親和性のある人には「居場所」を提供する。それが正義のもつ機能なのだと思う。

「正義」は、不利な立場にいる自分を一気に優越者、倫理的に優れた人間へと高みに上げてくれるロジックとしても機能する。イマイチ居場所を見つけられない場合、自分を排除する人間・集団を悪とし、自分はたった一人で孤独に正義のために立ち向かう英雄として位置づけられる。

「正義」は「居場所」を求めずにいられない人間の欲求と不可分なもののように思う。「正義」と「正義」がぶつかり合い、しかも敵とみなした者に対し容赦がなくなるのは、自分の居場所を破壊されてはたまらない、という恐怖心から生まれるのかもしれない。敵を人間とも思わない非情さの原因では。

人間はある程度の人数を超えると二つ以上のグループに分かれ、抗争が始まりやすいが、「子育ての大誤解」には面白い事例が紹介されている。教室にいる大勢の子どもたちを束ねるばかりでなく、担任されたことがない子どもまで「私はあの先生の教え子」と記憶が改ざんされるほど影響力のある教師の話。

その教師はどう子どもを指導したのか。「あなたにはあなたの使命がある。それが何なのか、探しなさい」。子どもたちは、自分にだけ与えられた使命とは何なのかを生涯考え続けた。その教師の教え子達は、驚異的なほどに社会的成功を収めた子どもたちが多かった。しかも社会をよくしようとした。

その教師は、使命が何なのかは明示しなかった。子供自身が探し、見つけなければならない、と。ただ、日常でつまらないことをしでかすと「あなたはこんなつまらないことにかまけている人間ではない、自分の使命を探し、見つけなさい」と暗示。ずっとずっと大きなものを探すよう促していた。

「使命」は「居場所」にしがみつく萎縮した気持ちを大きく広げ、心にゆとりを与える効果があるらしい。その教師が暗示したように、誰かを排除したりするようなつまらないことにこだわらない、という条件を備えた「使命」を探すことになると、自然、多くの人を包摂できる「使命」を探し求める気持ちになるらしい。

「正義」は、自分の居場所を守ろうと心が萎縮しやすく、「敵」とみなしたものを殲滅せずにおかない狭量さが生まれやすい。己の「正義」に万人をひれ伏させるという征服欲に転じやすい。しかし、その教師の暗示した「使命」は、より大きく、さらにより大きく、アップデートを促すもの。

相手の正義、自分の正義の両方を超克し、包摂できる方法を探し求めるという、「止揚」の機能を「使命」に備えさせるのは、とても面白い考え方だと思う。「正義」はアップデート機能が失われているけれど、止揚することが要件の「使命」なら、自分自身の考えもアップデートする必要に迫られる。

「包摂」を使命にした場合、正義よりも面白いことになるのではないか、というのが私の現時点での仮説。正義は、キリスト教の支配が弱まり、神の代わりとなる権威として出てきた代替物だったと想われるが、欠陥が見えてきた。人類という生き物に合ってるのは、包摂という使命なのかもしれない。

ガーゲン「関係からはじまる」が、興味深い事例を紹介。アメリカを二分する中絶の問題。賛成、反対の人達をただ会わせるだけだと全く話が通じず、物別れに終わる。ただその事例では、なぜその意見を持つに至ったか、個人的な体験を語ってもらうことに。聞く側はそれを否定せずに耳を傾けるように。

すると、中絶を選択せざるを得なかったつらい体験、中絶に反対したくなるようなつらい生い立ちなどが語られた。その結果、「あなたがその意見を持つに至った理由はよく分かる」と、互いに理解を示せるように。
これは大変興味深い話。個人的体験を取り去った公式見解、客観的意見は折り合えないのに。

その意見をとるに至った個人的体験、主観的感情は、多くの人たちから共感を呼ぶ。
ずいぶん皮肉な話だと思う。個人的体験を捨象した客観的意見、見解は共感されず、普遍性がないのに、主観的な個人的体験は多くの人から共感される普遍性があるという不思議。

「正義」は、個人的主観的要素を取り払った、客観的なもののフリをしている。しかし、別の「正義」にいる人から見れば主観的で偏っているように感じる。
しかし、「正義」を脇に置き、個人的な体験、主観的な感情を伝え合うと、「分かる」になる。主観、個人的なものの方が普遍性があるのかもしれない。

これは恐らく、「もし自分が同じ生い立ち、同じ環境に置かれたとしたら、そうした考えに至るのも無理からぬことだ」と、自分との共通点、人間としての共通点を感じるからだろう。「正義」は、そうした共通点から遠いところにある、虚構であるらしい。

だとすると、「正義」が与える居場所は、かりそめのものでしかないのかもしれない。「正義」が与える居場所は、例えば「良妻賢母」を平気で言えるとかの「属性」を示すことで与えられるもの。ならば、その人の「素」は全く見ていない。「仮面」で判断している。
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中絶問題に賛成反対双方の人間が、個人的な体験、主観的な感情を共有したことで生まれた理解は、「素」を認め合ったもののように思う。「正義の仮面」のような薄っぺらいものとは違うように思う。こちらの人間関係の方が、たとえ意見が違っていても分かり合える「素」に違い関係ではなかろうか。

「正義」でつながった連帯感は、「正義」の従僕であることを互いに認め合うようなもの。恐らくそれはナチス党員の間の連帯感と、構造はよく似ている。「正義」という夾雑物を挟まない人間関係を構築する方が、楽しいんじゃないかなあ、包摂もできるんじゃないかなあ、と思う。

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