努力教より「楽しむ」教

「篠原さんはインフルエンサーなんだから発言に責任を持って」と説教してくる人が時折出てくる。知らんがな。私はインフルエンサーになりたくてなったわけじゃない。知らんうちにフォロワー数が増えていただけ。フォロワー数の増減は私にはどうしようもない。それはフォローする人に決定権がある。

私は、こういう認識が広がるとお役に立つこともあるだろうか、と思う気づきをつぶやいていただけ。そのとき気づいたことをリアルタイムでつぶやいてるだけだから文章の構成なんかも考えてない。「物書きなんだからもっとコンパクトに書け」なんて説教してくる人まで出てくる。知らんがな。

思いつきで書くものに構成もへったくれもあるかいな。浮かんできたことを徒然なるままに書いてるだけ。そこがツイッターのええとこやん。「つぶやき」なんやから。誰やツイート(つぶやき)をポスト(投稿)なんて変えたんは!マスク氏か!余計なことせんともとに戻して!私は気軽につぶやく!

世の中には「あなたは〇〇なんだから」と、特定の定義にあてはめ、「その定義に従うならば、あなたはこの倫理道徳を守るべきだ」と縛りをかけようとしてくる人がいる。知らんがな。あんたは倫理道徳で人を縛り、自分の言うがままに人を操りたいという欲望に負けてるだけや。なんでそんな人の言う事聞く必要あるねん。

ところが世の中、意外とこの手法は有効だったりする。「前畑頑張れ」で有名な水泳の前畑選手は、期待されていなかったのにオリンピックでメダルをとり、一躍注目の人に。次のオリンピックでもメダルを期待され、前畑選手もその期待に応えようと必死に頑張った。しかしそのことがかえってよくなかった。

期待に応えなければ、という恐怖、不安が、楽しくて仕方なかったはずの水泳をつらいものに変え、練習は気の重い苦行に変わり、成績は伸び悩んだ。人々の勝手な期待に応えようとしたことがかえって仇になった。自分を倫理道徳で縛りつけたことが楽しさを奪い去ってしまった。

対照的だったのは、北島康介選手。周囲から寄せられる期待の声をあえてスルーするかのように「オリンピックは楽しませてもらう」と発言を繰り返した。オリンピックに出られなかった選手たちの分まで頑張らなきゃいけないのに、「楽しむってなんだ!責任感がない!」と、当時マジメだった私は

北島選手のその発言がふざけているようで、とても利己主義な気がして、癇に障ったのを覚えている。しかし北島選手は文字通り「楽しむ」ことで様々なプレッシャーを克服する楽しみに変え、心身はのびのびと躍動し、連続してメダルをとる快挙を成し遂げた。「楽しむ」ことがこんなにも力強いとは!

北島選手の活躍と、「楽しませてもらう」という発想は、私の考え方を大きく変えた。「期待に応えよう」というのはマジメでよろしいと世の中ではされているけど、実は思考から柔軟性を奪い、楽しむ力を損ない、あらゆる可能性を潰す「呪い」だったんじゃないか、ということに気がついた。

ここから少しずつ「人の期待に応えるべき」という呪いから自分を解除し、「楽しむ」ことを何より大切に考えるようになった。楽しみを優先すると、不思議なもので利己主義には陥らず、ごく自然に利他主義にもなる。どうせならみんなと楽しくやりたいぜ!になるから。楽しさが溢れ出して。

楽しむ。全てを好転させるのに、これってとても良い大切なことなんではないか。苦しむこと、苦しみを乗り越えることをよしとする「努力教」(友人からもらった言葉)は、楽しめずにいる人には甘いささやきだが(苦しんでる自分はその苦しみ故に価値のある人間)、やはり苦しんでる。しんどい。

人生は「どうせ」ほっといても苦労はくるんだから、わざわざ苦労を背負おうとしなくてよいと思う。「どうせなら」楽しんでしまえばよい。その苦境を苦しがるのではなく、「このゲームをいかにクリアするか!」という遊び、楽しみに変えてしまう。すると心身が伸びやかになる。

心身が伸びやかになると、発想が柔軟になるので解決策が見つかりやすい。楽しみながらやってるから荷物も心なしか軽くなる。むしろ、「いいぜ、百難出てこいやあ!」って強さに変わる。横山光輝「三国志」で、曹操が「天よ、我に百難を与えよ、全て乗り越えてみせる」と語る、あれと同じ。

楽しむとは、逃避することではない。どんな苦難もゲームに変えるたくましさのことだと考えている。つらい練習も「うおお!これが終わったらアイス食ってやる!」でいいと思う。それでパフォーマンス上がるなら安いもの。

私の後輩で、教授から「ひたすら土から菌を取ってこい」と命じられた学生がいた。日々、土を取ってきてはそれをシャーレに塗りたくって、生えてきた菌を分離するという単純作業。学生は教授に交渉した。「菌を50個分離するたびにアイスバーおごってください」教授は笑って了承。

すると、学生はおごってもらったアイスバーの棒を机の上に積み上げるようになった。その棒の山の高さにみんな驚いた。その学生は見事に単純作業をゲームに変え、楽しみながら作業を続けた。

私もそうだったからわからないではないが、倫理道徳で人を縛ろう、コントロールしようというのは「人は苦しまねばならない、楽しんではならない」という「努力教」の信者に多い。私は残念ながら、努力教は呪いだと考えている。苦しんでまでやる価値のあることなんてない。苦しむくらいならやめちまえ。

その代わり、楽しんじゃえばいいと思う。楽しめば大概のことはヒョイと気軽にやってのけられるようになる。気が重くてできなかったことが進んで「オラオラ、苦労?苦しみ?上等だ、出てこいやあ!全部楽しんで乗り越えてやる!」と取り組めるようになる。そんなふうに思う。

西原理恵子「毎日かあさん」で、麦ファイブという、男の子ばかり5人育ててる母親が出てくる。散々遊び回り疲れ果て、帰宅の途上で子どもたちが「疲れた〜もう歩けない〜」と道端でへたり込んだ。幼児一人ならともかく、全員。とてもこのままでは帰れない。どうする麦ファイブのお母さん!

するとお母さん、「そうかー、歩けないか。じゃあ走ろうか」。
すると子どもたちはガバッと起き、「家まで競争だ!」と走り出した。かけっこという楽しみに変えてしまった見事な魔法。

歩いて帰るだけだとつまらないからただの苦行になる。しかし、「走ろうか」と声をかけられたとたん「これだけ疲労していてもオレは家まで走り抜けられるのか?挑戦しがいのある壁だ!」となり、俄然立ち向かいたくなる。特に男の子はこの傾向が強く出やすいらしい。楽しむと疲れててもまだ動ける。

楽しんでしまえばよいのだと思う。今後も私はツイッターで楽しませてもらう。「インフルエンサーなんだから」なんて呪いに囚われる気はない。別にフォロワー数が減るなら減るで構わない。そこは私の自由になる話ではなく、フォローする人に決定権があるのだから。そこに私が思い悩んでも仕方ない。

私は楽しみながら、「あ、これ、皆さんに楽しんでもらえるかも」という気づきを共有し続けるつもり。私が楽しくないならそれもできない。でも、楽しんでるから長続きするのだと思う。苦にもならないのだと思う。「努力教」で私を縛ろうとしてもムダなので、その点ご理解賜りたく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?