優しさ、親切という名の「能動性の強奪」

「自他の区別ができない、入れ込みすぎる」と指摘された、という人から相談を受けた。それを聞いて思い出したのが、2人のメディカルソーシャルワーカー。
一人は、自分の担当することになった患者に同情しすぎ、プランを提案した後も「もっとどうにかできなかったのか」と悔やみ、悩んでついに退職。

もう一人はサバサバしていて、患者に合っているであろうプランを複数提示し、それぞれのメリットとデメリットを説明し、本人に選ばせる。それが済んだら次の患者に意識をシフトし、過去の仕事を振り返らない。その代わり「こういうケースにはどういうプランが最適か」を常に模索し、研鑽を怠らない。

後者の人は、今もその仕事を続けている。常にベストなプランを提示できるよう努力はしているが、そのベストなプランでさえ患者の人生を完全に救えるほどの力がないこともわかっている。けれど「自分にできることはそこまで」ともわかっている。あとは患者自身が選び取るしかない、と承知している。

ユマニチュードでは、患者にとって最も危険なものとして「ベッド」を挙げるのだけど、その次に危険なものとして「何でもやってあげようとする看護師」を挙げている。患者を「かわいそう」に思い、すべての世話をやったげる看護師は、患者から能動性をすべて奪ってしまうことになるから。

私達はついつい、何もかもやってあげるのが親切と思いがち。しかし他方、人間は、自分で何かしら成し遂げた、という「能動性」を発揮できたとき、とても誇りに思い、楽しくなる生き物。幼児が大人に向かい「ねえ、見て見て!」というあの感覚は、実は死ぬまで消えない。

なのに「何もかもやったげる」人は、相手からすべての能動性を奪ってしまう。
私の塾に「魂飛ばし」の名人が来た。「この問題集やっておきなよ」というと、「ハイ!」といういい返事。ところが問題集に向き合って5秒もたたないうちに、魂は心の中のお花畑へ飛んでいき、心ここにあらず。

なんでこんなことに?と両親の話を聞いたら、この子はひどいおばあちゃん子で、5歳になってもおばあちゃんが服を着せ、食事もスプーンで口にまで運ぶ溺愛ぶり。孫の世話は全部おばあちゃんがやってしまい、その子は自分では何もさせてもらえなかったという。

どうやらその子は、唯一自分に残された能動性として「魂飛ばし」を開発したのだろう。現実にはおばあちゃんが全部能動性を強奪してしまうから、唯一奪われずに済む想像の世界で、自分の能動性を確保しようとしたのだろう。

私は思う。教育とか支援という仕事は、本人が能動的に生きることをアシストするものでしかない、と。あとは本人が能動的に生きることを祈ることができるのみ。その人の代わりに生きることはできない。その人が自分の人生を能動的に選び取って生きるしかない。そこをアシスト側は勘違いしてはならない。

しかししばしば、優しすぎる人は「自分が介入することでなんとか解決できないか」と考えてしまう。自分が「救いの神」になろうとしてしまう。そして踏み込みすぎ、つまり入れ込み過ぎ、相手から人生を奪ってしまう。親切から始めたことなのに、相手から恨まれることも。だって人生強奪されるから。

私は、支援するときに大切なことは「能動的に生きる」という、人生最高の楽しみの一つをなるべく奪わないようにする、相手の手元に残しておくことだと考えている。そのことを忘れると「支援」の名を借りた「人生の強奪」になってしまうから。

恐らくなのだけど、冒頭の入れ込みすぎる人、自他の区別がつかなくなってしまう人、というのは、自分が好きなだけ能動性を発揮することは、相手から能動性を奪うことになるという構図に気づいていないからではないか、と思う。相手を「おばあちゃん子」にし、能動性を奪った形となってしまう。

支援はあくまで、相手が能動的に生きることを最大限に楽しむことができるようにサポートすることのように思う。もしいささかでも本人の能動性を奪うことになるなら(本人が能動的に動いて解決を楽しめることにまで手を付けるなら)、それは「能動性の強奪」となってしまう。

「助長」というエピソードがある。隣の畑より育ちの悪い自分の苗を見て、成長を助けようと苗を上に引っ張り、根を切ってしまって苗をすべて枯らしてしまった話。なんと愚かな、と思うけど、支援する立場の人はしばしばこの「助長」をしてしまう。

苗の成長を促すには、適切な量の肥料と水を用意すること。大量過ぎると根が腐り、苗も枯れてしまう。いらぬ親切は大きなお世話となり、苗をダメにしてしまう。そして何より、苗が成長することを代わりにしてやることはできない。苗自身が、苗自身の持つ力で伸びること。周囲はそれを祈るしかない。

支援とは、苗の成長の邪魔をしそうな環境を改善することはできても、苗自身が伸びようとすることを肩代わりできない。苗自身が能動的に成長することを祈るしかない。支援とは半ば以上、「祈る」ことが仕事なのかもしれない。しかし、この「祈る」ことが決定的に重要だとも思う。

子どもは、自分が熱中してることを邪魔されたくない。変に手出しもしてほしくない。自分で成し遂げたという能動性を最大限に楽しみたいから。けれど、何か発見があったり、自分でこれはうまくいったと思ったとき、そばで見守ってくれた人に「ねえ、見て見て!」と、驚きを共感してもらいたい。

能動的に生きることを楽しんでほしい、と祈っている大人は、その輝かしい、晴れ晴れとした顔を見たときに最高に嬉しくなる。その子が能動的に生きることは、支援する側にはどうしようもないこと。もう、「祈る」しかない。なのにその「奇跡」が起きた。そればかりか嬉しそうな顔を見るという幸運。

私達は、支援する側の「限界」を知るからこそ、本人の能動性が現れる「奇跡」を祈るしかない立場であることを思い知るからこそ、それが現れたときに驚かずにはいられない。しかしその驚きの反応こそが、子どもの能動性をさらにたきつける。

そしてこの構図は、恐らく子どもに限らない。ユマニチュードでは、高齢者に対してこの姿勢で臨む。そして高齢者が能動的に動いたときに、驚かずにはいられない。喜ばずにはいられない。その驚きと喜びが、高齢者の意欲をさらにかきたてるのだと思う。

支援とは、本人の代わりに立つことではない。本人が立とうとする能動性を発揮する際に、足りない部分だけを足す行為。決して本人の能動性を奪ってはならない。
しかししばしば、親切な人は「代わりに生きよう」としてしまう。それは人生の強奪になってしまうのに。人生の最大の楽しみを奪うのに。

能動的に生きる、という楽しみを奪わない。その楽しみを最大化することを支援する。それが支援なのだと思う。優しさはしばしば、親切の名を借りた「能動性の強奪」になる。私達はみな、能動的に生きることを楽しむことを大切にする必要がある。それを忘れないようにしたい。

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