悪意よりタチの悪い善意・・・食品ロスを施設に送る運動について

阪神大震災は1月17日に起きた。真冬でともかく寒かった。このため、救援物資として毛布を送ってほしいという呼びかけがなされた。すると、全国から大量の毛布が送られてきた。この時困ったのが、汚れた中古のものが少なくなかったこと。というか、多かった。衛生面で不安があり、それらは廃棄した。

困ったのは、仕訳に人手がかかること。大量に積まれた段ボール箱を一つ一つ開け、何が入っているかを確認せねばならなかった。何が入っているのか外側からは全く分からないものも多かった。使えないものはゴミ。これが非常に大量で、場所も取られた。

これと同じことが、「食品ロスとフードバンクを結び付けるアイディア」で起きている。貧しい人に食品を配るには、余って捨てられるだけの食品ロスを食べてもらえば一挙両得じゃないか、ということで、ニュースなどでもよく取り上げられている。しかし、現場の方から聞くと、阪神大震災の毛布状態。

あまりに奇抜過ぎて食べようと思えない商品や、賞味期限切れのもの。奇妙な調味料が妙にたくさん。コメとか、ベーシックに腹を膨らますことができておいしいものが皆無。何かないかとボランティアも仕分けするのだけれど、ほとんど廃棄に回すしかなかったりするのだという。

仕訳する人手もとられる、何とか食べられるものだけ自動車に乗せて対象者の人に届ける、なんて手間を考えると、「買ったほうが安い」。結局、食品ロスをフードバンクに回せばよい、というアイディアはよさそうに見えて、単に体の良いゴミ箱扱いにされているケースがあるという。

そもそも、食品ロスをゼロにしようというのが無謀。そもそも発想に問題がある。食品ロスは「安全余裕」でもあるからだ。
原子炉は多少暴走しても爆発せずに済むよう、余分に頑丈に作ってある。これが「安全余裕」。もし「安全余裕なんか無駄だ、経費削減のため原子炉の壁を薄くしよう」となったら。

いざというときに大事故を防げなくなる。だから、安全を確保するための「安全余裕」は必須となる。
実は食品ロスも同じこと。もし食料が足りないとなったらどうなるだろう?飢える人が出る。食料は命を支える必須のもの。これが不足したら死ぬ人が出るかもしれない。

だから食料というのは必ず余分に確保しなければならない。少し余るくらいにしておかないと、いざというときに餓死者が出かねないからだ。そう、食品ロスとは、食料安全保障にとっての安全余裕にほかならない。

バブル経済の頃と違って、今の日本は貧しく、それに「もったいない精神」が行き届いて、食品ロスはかなり減っている。そんな状況での食品ロスは、量が十分確保できないばかりか、種類もいびつ。先日、フードバンクをやっている人が食品ロスで送られてきたのを見たら、調味料とか変なドリンクとか。

いやこんなので腹を膨らませることはできないし、食べろとも言えない。わずかばかりマシなのを除いて、他は廃棄するしかない代物ばかりだった。食品ロスのものをフードバンクや子ども食堂に送ろう、という呼びかけは、阪神大震災での「汚れた毛布」と同じになりかねない。

阪神大震災で、中古の毛布だったのだけれど、未使用品よりも人気の毛布があった。それには手紙が添えられていた。「使用済みのもので申し訳ないのですが、洗濯し、3日間日に干しました。こんなものでよろしければお使いください」。その毛布からは、人情のぬくもりを感じることができた。

未使用品の毛布でも、10年くらい押し入れにしまいっぱなしだったのだろうという、つぶれてペシャンコのとか、なんだかかび臭いようなものだとかも少なくなかった。しかし手紙を添えられたその毛布は、フカフカで心地よく眠れるよう、配慮されていた。人気があるのも当然。

不思議なもので、その荷物を送った人がどういう気持ちで送ったのか、感じられることも多かった。「被災地は寒いらしいしモノもないからこんなものでもありがたいと思うだろう」と、どこか見下げている感のある梱包は、段ボールを開けた瞬間「ああ、そういうつもりなのね」と感じる。

しかし手紙付きの人気の毛布は、日に干してフンワリした柔らかさが潰れないよう、箱詰めにも細心の注意が払われていた。その心づくしが、箱を開けた瞬間に分かる。被災者を人間として見ている、対等な人間として見ていることがよく分かる梱包。

さて、食品ロスをフードバンクに、という呼びかけは、どちらに転ぶだろうか。「腹が減っているなら文句を言わんだろう、こんなものでもありがたいと思って食うだろう」と思ってモノを出していないだろうか。そうした心映えはしっかり中身に映し出される。

「食べられる食品を施設に提供」といえば、善意の衣を借りることができる。そう、阪神大震災で毛布を送ったように。しかしその時、「そういえば捨てようと思っていた毛布がうちにあったわ。あれ送ろうか」という人が少なくなかったため、被災地はゴミ捨て場と化してしまった。

フードバンクもそうなる恐れがある。というか、すでにそれが発生している。支援している方から聞いたけれど、ゴミにするしかないようなものが送られてきて、そうでなくても生活再建ができなくて傷ついている心をさらに傷つけられた、という人がすでに。むしろこうなると、悪意よりもタチが悪い。

「どうせゴミになるなら、おなかの減っている人に」「どうせ捨てるなら、寒いと思っている人に」これらは善意に見せかけているが、悪意以上に受け取った人の心を傷つける。仕分けする人手がかかる。ゴミとして捨てる作業に手間と時間がとられる。

支援の基本は、自分も食べたくなるようなもの、使いたくなるようなものをお送りすること。ここを外しちゃいけない。また、「ありがたいと思え、感謝しろ」はダメ。どこまでも対等な人間として対することが大切。

スーパーの売れ残りの変なものを出すくらいなら、手作りのホカホカおにぎりの方がはるかによい(もちろん今ならコロナ対策して)。相手に喜んでもらおう、どうすれば喜んでもらえるだろうか、変に傷つけないで済むだろうか、という配慮こそが大切。

安直に、食品ロスを施設に送ろうという話に対して、私は強い警戒感を抱く。善意の衣を被った、人を見下す心理、思い上がりは、悪意よりもタチが悪いことを、私たちはそろそろ学ぶ必要があると思う。これを良い行動として勧めようという掛け声にも、私は細心の注意が必要だと思う。

それに、繰り返すが、食品ロスはゼロを目指してはいけない。食料安全保障を考えるなら、食品ロスは「安全余裕」なのだから。安全余裕は余りものだから種類や量がいびつになる。それを施設に押し付けるなんて、失礼な話。まず、その失礼さを自覚する必要があると思う。

「余ったものはみんなフードバンクや子ども食堂に送ればいい」という流れができつつある。私はそれにちょっとした憤りを感じている。食べるに食べられないものを送る流れが今後もひどくなるようなら、いずれ私はその善意の皮をはぐことをためらわないだろう。

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