「親が」「リーダーが」ではなく

子育て本だと「親が~してあげるべき」、リーダー本だと「リーダーはかくふるまうべき」と、主語が親だったりリーダーだったりする。私は、指導する側を主語、主役にして考えるとうまくいかないように思う。子どもを、部下を見ていないから。自分がどう見えるかを気にしてばかりだから。

日本チームがWBCで世界一になった。栗山監督は、一見何もしていないように見える。実際、こまごまとしたことは指示していないと思う。しかし、私のような野球の素人でも選手たちが生き生きしていた。選手たちが粒ぞろいだった、その可能性はある。でもこれはやはり栗山監督の采配があってこそ。

栗山監督の話を読むと、案の定というか。選手を主語にした話ばかりしている。自分軸で話すのではなく、常に選手を軸にして考えている。監督は、選手の能力を引き出すためのアシストに徹すべきだ、と考えているような気がする。主語、主役は選手。監督じゃない感じ。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_sports/articles/000292682.html

選手をよく観察し、選手が今どういう気持ちでいて、どういうコンディションなのか、「選手が」を主語にして考える姿勢が徹底しているからだろう。これは子育てでも、部下を育成する立場でのリーダーも同じだと思う。

私は部下育成本と子育て本を書いた。この2冊の特徴は、主語が部下であり、子どもであること。リーダーかくあるべし、とか、親はかくふるまうべき、と言った、指導者側を主語に置いた書き方をしていない。主語は部下であり、子ども。ひたすら部下や子どもを観察するように勧めている。

親が、リーダーがこうふるまったら子どもや部下はこう反応する、なんていう魔法の杖があるはずがない。子どもも部下も個性は様々。置かれた状況によっても反応が違う。なのに親やリーダーが本に書いてある通りにふるまったら決まった反応をしてくれるなんて、甘い、甘い。そりゃ無茶というもの。

それよりは、子どもは今、どんな気持ちなのか?そういう気持ちの時はどう声をかけるとどう反応することが多いのか?個性がこのタイプはこう、別のタイプならああ、状況が違えばまた別の反応、というように、子どもをよく観察し、子どもの「いま」から、対応策を考える必要がある。部下も同様。

「荘子」という本に、包丁の名前の起源ともなった料理人、庖丁が出てくる。庖丁は王様の目の前で牛一頭をさばいた。その様子は音楽のように、踊るかのように見事で、王様感激。「その牛刀はものすごくよく切れるのであろうな」と王様がお尋ねになると。

「私は切っていません。未熟な料理人は、牛を切ろうとします。すると刃がスジや骨に当たって欠けてしまい、何度も研がなければならなくなります。私は牛をよく観察し、スジとスジの隙間が見えたら、そこにそっと刃先を差し入れるだけなのです。すると、身がはらりと離れます。

切らないから刃こぼれせず、もう何年も研いでいませんが、ますます切れ味がよくなっています」
この庖丁の話は興味深い。未熟な料理人は、主語が自分になっていて、牛は目的語になっているのだろう。そして自分が見事にさばく姿を思い描いて。でも想像とは違って刃が骨に当たってしまって。

庖丁は、自分が見ているということも忘れて、牛を観察し、やがてスジとスジが「ここに隙間があるよ」と訴えかけてくるのを待っていたのではないか。そして言われるがままに刃先を差し入れただけなのではないか。だから庖丁は切らずして切ることができたのでは。

マニュアル本を読むと、自分の振る舞いが気になってしまう。自分が他人からどう見えるかが気になってしまう。そのために、自分が主人公になってしまう。自分が主語になってしまう。その結果、相手や状況が見えなくなり、自分のみっともなさがクローズアップされて、余計に緊張してしまう。

自分のことなんか忘れちゃって、自分がどう見えるかなんて打ち捨てちゃって、ただひたすら子どもを観る(観察する)。あるいは部下を観る。そして子どもや部下の状態を把握し、その状態が語り掛けてくる「こうしてほしいんだよ」をやってみる。自分は相手からの語りかけに応じる従の立場。

そうすると、うまくいくことが多いように思う。他方、自分を主語にすると大概うまくいかなくなる。不器用になり、無様になる。それは、相手を、状況を観察せず、自分がどう見えるかばかり気にするからだろう。周りが見えないからどうすべきかが分からなくなってしまうのだろう。

自分がどう見えるかなんか、忘れちゃえばいい。それよりは、相手を、状況をよく観察する。観察することを徹底すれば、自分のことなんかすぐに忘れてしまう。でも、そうすることで、観察対象から、何を今なすべきかを教えてもらえる。それに従えばよいだけ。

子育て本やリーダー本は「親が」「リーダーが」と、主語の置き方がまずい本が多いように思う。そのためにかえって無様になってしまい、劣等感を持ってしまう親御さんやリーダーを増やしてしまっている気がする。

赤ちゃんを育てていたら、親を主語にすることなんかできないことを痛感する。なにせ、相手は親のことなんか頓着できない赤ちゃん。だから、泣くのも寝るのもゲップするのもハイハイしまくるのも、赤ちゃんが主語。親はその状況に従属的に動くしかない。

でも、この赤ちゃんとの接し方が、子育てでも部下育成でも最も重要なのだと思う。相手の様子を観察し、何か異変がないかと注意深くなり、すぐ対処。問題がなければ変に手を出し過ぎず、見守る。できなかったことができるようになったら、その差分に驚き、喜ぶ。

赤ちゃんの頃から、人間はどうやら、驚かすのが大好き。それが成長したいというエネルギーになる。ならば、赤ちゃんにそうしていたように、相手を主語にし、相手をよく観察し、それに応じた対応を心がけたらよいのだと思う。子育て本やリーダー本も、そのように変化していただきたい。

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