「待つ・任せる」と「能動感」考

その子はまるで能動性の見られない子だった。高校1年生だったけど、分数もできない。何よりも、自分から何かしようという能動性がまるでない。いつもボーッとしていた。「これをやりなよ」というと「はい!」といい返事。でも10秒とたたないうちに心のお花畑へ。

なぜその子がそうなったのか。ご両親に伺うと、5歳になってもスプーンで口元まで食事を運び、着替えも全部やってあげるおばあちゃんがいて、自分で何もさせてもらえなかったらしい。能動的に取り組みたくても「危ない、おばあちゃんがやったげる」「うまくできないでしょ、おばあちゃんがやるから」。

自分で能動的に取り組めるものがなにもない状態にずっと置かれて、その子は唯一能動性を発揮できる「心のお花畑に魂を飛ばす」ようになってしまったらしい。
まずはその子の能動性を取り戻す必要がある。でもその前に、最初は強制的になるけど、「魂の召喚」から始めるよりほかなかった。

その子は、課題を与えても10秒と持たずに心のお花畑に魂を飛ばしてしまう。魂を飛ばすと学習どころではなくなってしまうので、事前に「こうするよ」と説明したうえで、その様子が見えたら机をバンと叩き、驚かすことにした。「ほら!また魂が飛んでたぞ!」

魂を飛ばすと驚くハメになる、という経験を繰り返すうち、だんだんと魂が心のお花畑におでかけする頻度が減り、魂が「ここ」にとどまるようになってきた。で、分数を教えるわけだけれど、これが全然理解できない。3分の1と3分の1を足したら6分の2にしてしまう。分母も足し算してしまう。

分母、分子なんて難しい言葉を使うと分からないし、こちらもよく言い間違えるから「横棒の上、下」という言い方に変えて、「横棒の下の数字はいくつに切るかってこと、上の数字はその切れ端の数」と説明したけど、理解できない。そうこうするうち、どうやらケーキを切り分ける経験がないことが判明。

一人っ子で、しかもおばあちゃんが溺愛していたから、ケーキを家族の人数に均等に切り分けるなんて文化が家になかったらしい。これではわかるはずがない、と、円を渡して「三つに切り分けろ」と言ったら、切れない。なんかでたらめな切り方をする。「ケーキを切れない少年」だった。

悪戦苦闘を重ねるうち、その子は重大な発見をした。「なんや!ケーキを切り分ける場合は、ともかく真ん中に向かって切り目を入れればいいのか!」
分かっている人間からしたら「そこからかーい!」と突っ込みたくなるかもしれないけれど、その子にとっては大発見、大変なコツの発見だった。

自分の力で、自分なりに、自分の言葉で分数を理解できたその子は、以後の学習を、能動的に取り組むようになった。こちらは「教科書を読め、読んだ後、練習問題を解いてみろ」とだけ言って、教えなかった。小学校3年生の教科書から始めて、その子は自分自身の力で取り組んだ。

その子自身が納得できるまで取り組むのを、ひたすら「待つ」。こんな簡単なことがなぜ理解できない?などと焦ってもムダ。これはこう考えたらいいだろ!とこちらが思ってもムダ。その子の中に納得という「奇跡」が発生するのを待つしかない。

また、「教科書を読め、読んだ後、練習問題を解いてみろ」という基本姿勢は示したけれど、それに対してどう取り組むかは「任せる」。どんなペースで進めるか、どんな風に教科書を読み、練習問題に取り組むかは本人に任せる。委ねる。それらは本人が能動的に取り組むしかないのだから。

こうして「待つ」「任せる」と、その子も、自分が能動的に課題に取り組み、自分自身の努力と力で一つ一つ理解が進んでいく、という感覚を味わうことができたらしい。能動的に物事に取り組むことができた、という「能動感」をその子は味わえたらしい。そのおかげか、魂を飛ばすことはなくなった。

その子は高校2年生になるころには、小学校3年生から中学3年生までの内容を学習し直すことができ、以後、高校ではそこその成績を収められるようになったらしい。自分で進路も決め、能動的に生きていく力がついた。能動性のない子が、能動性を取り戻すことができた。

また、別の事例。
その若者は大学生だったけれど、卒業を2回逃していた。卒論を書く時期になると体調が悪くなり、卒論書けずに留年。3度目の正直で、私のもとに来た。その学生は、何を聞いても「分かりません」としか答えなかった。無気力。能動性のかけらも見えない状態だった。

あまりに無気力なので、もし私がああしなさい、こうしなさいと指示したら、その指示通りに動こうとするかもしれないけれど、その指示さえも十分にこなせないだろうな、というのが明らかだった。あまりな無気力、能動性の欠如で、指示通りに実行する力も失われている状態だった。

まずは能動性を取り戻すことから始めないと、何も動かないと考えた私は、本人の中に「能動感」が生まれるような指導を心がけた。
それまでの指導は、先生がああしなさい、こうしなさいと言ったら、とりあえず「はい」と返事して、不十分な実施をして先生が諦める、という形を繰り返していたらしい。

私は、その学生が動くかどうかも一切諦め、その子の中に「能動感」が生まれるよう祈りながら、次のように接してみた。
「今回、こんな結果が出たのだけれど、君はどう思う?」と質問すると、「わかりません」という安定の回答。まあ、これは予想通り。で、私は。

「実は、僕も初めて目にする現象で、何が起きたのかわからないんだよね。わからない者同士、まずは何が起きたのか、一緒に観察しようか」と伝えたうえで、「ここはどうなっているかな?」と、見たままを答えてもらえるような問いを発した。すると学生は、オズオズとだけど「・・・こう見えます」。

私は、「わかりません」と比べたら、はるかに自分で(仕方なしかも知れないけれど)観察し、自分の頭で考え、自分の感じたことを述べてくれたという「能動性」が発生したことに驚き、喜んだ。「おお、そうだね。じゃあ次、ここは?」と、問いかけを続けた。学生さんも次第に慣れながら答えてくれた。

問いかける、答えてもらう、ということを繰り返すうち、目の前の現象で何が起きたのかがだんだんと明確になってきた。でも、私はそこで自分の見解を述べるということをやめ、あくまで学生さんが能動的に動いたことで何事かが成し遂げられた、という形を取りたかったので、次のように問うた。

「これまで見てきたことから、いったい何が言えるだろう?」すると、学生さんも、これまでの問答の中でおおよそ仮説が思い浮かんでいるので、「こうしたらこうなるかもしれない、と思います」。私は、私が問いかけるアシストをしたとはいえ、自分の頭で考えて仮説を組み立てた、その能動性に驚き、

「おお!なるほど!じゃあ、その仮説に基づいたら、どんな実験をするとその仮説を確かめられるだろう?」と問いを重ねた。それまでの問答で問題点が明らかになっているから、学生も答えられる。「よし!じゃあ、君のその仮説に基づいて、実験してみてくれるかな」というと、

学生さんも、私のアシストがあったとはいえ、自分のアイディアで組み立てた仮説が正しいかどうか検証したくなって、実験を始めた。
その学生には、約3カ月間、私が問いかけ、学生に答えてもらう、というスタイルを続けた。すると次第に、私が問いかける前にすでに仮説を組み立てていることが増えた。

ついに「この課題はここが問題だと思うので、この仮説に基づいてこういう実験をしてみたいと思いますが、やっていいでしょうか」と提案してきた。私は「おお!それは面白そうだね。ぜひやってみてよ」とゴーサインを出した。以後、その学生さんは、自分で実験を組み立てて能動的に研究するように。

その学生さんが能動性を取り戻せたのは、私が「待つ・任せる」という姿勢を崩さなかったからだと考えている。恐らくだが、その学生さんのそれまでの指導は、待たなかったし、任せなかったのだろう。

学生がどうしたらよいかを先生が考えてしまい、学生が自分で考え、提案するのを待たなかったのだろう。学生が自らの仮説を検証しようとするのではなく、先生が考えた仮説をさせようとしたのだろう。つまり学生に任せなかったのだろう。そのため、学生さんは、自分が能動的に考え、動く余地を失った。

私は、その学生さんが自ら考え、仮説を述べるのを待ち、学生がどう考え、何を実行するのかも任せた。「待つ・任せる」という姿勢を維持することができたから、学生さんは、自分が能動的に考え、動くことで事態が変わった、と感じる「能動感」を味わうことができたのかもしれない。

私は、能動性というのは、何らかの刺激を受けないと発生しないものだと考えている。友達が何か面白がっている様子を見て、子どもは「僕も混ぜて!」となる。面白そうだ、という刺激を受ける「受動性」があるから、自分も一緒に楽しみたいという「能動性」が生まれる。受動性のない能動性はない。

ただし、受動性があれば必ず能動性が発生するわけではない。すべて先回りし、その子のやろうとすることを全部やってしまうおばあちゃんのもとでは、冒頭の子は能動性をすべて奪われ、魂を飛ばすことでしか能動性を発揮できなくなってしまった。相手を受動性で塗りつぶしてしまった。

能動性を喪失した大学生も、待ってくれる人、任せてくれる人がいなかったのだろう。そのために、受動的な姿勢が身についてしまったのだろう。でも、待ってもらえる、任せてもらえるという環境に置かれた時、自分の力で世界の秘密を明らかにできるという快感を覚え、それが能動性回復になったのだろう。

能動性を回復するには、自分が能動的に動くことで事態が動いた、と感じることができる「能動感」が必要であるらしい。心理学ではこの感覚を自己効力感と呼ぶらしいが、この言葉だと、能動的に動いた結果なのかどうかがハッキリしないので、わたしは「能動感」と呼ぶことにしている。

この「能動感」を味わえると、「あれ?能動的に動くと事態が動くの?」という面白さを感じ、「だったらもう少し能動的に動いてみようかな」という気が起きてくるらしい。こうして、能動性が回復してくようだ。

私のもとに来てくれる学生やスタッフには、この「能動感」をなるべく味わってもらえるようにするため、「待つ・任せる」ということを重視している。本人が動き出すのを待つ。動かないままかもしれない。それならそれでいい。もう任せたのだから、こちらは待つだけ。

もしそれでうまくいかないなら、それは相手のせいではなく、任せた自分の責任。相手は悪くない。
そうした考えのもとに、待つ・任せると、不思議なことに、スタッフも学生も次第に能動的になっていく。自分で能動的に動くことで事態が変わる楽しさを感じることができるからのようだ。

これがもし、私が「待たない・任せない」だと、様子は逆転してしまうだろう。スタッフや学生は、私の先走った指示に従うだけとなり、自分でやった感(能動感)が全然味わえない。結果がうまくいってもそれは自分のせいではなく、篠原の手柄になってしまう。これでは面白くない。

私は、本人の工夫やアイディアにかなり任せる。もちろん相談・連絡・報告はいただくけれど、「それでやってみてください」とゴーサインを出すことがほとんど。すると、自分のアイディアだから、それを試すのが楽しいらしい。自分が能動的に関わって事態を改善できたという能動感を味わいやすいらしい。

もし望ましくない結果があったとしても、「あ、それはゴーサインを出した私の責任です。あなたの責任ではありません」と、私が引き受けてしまう。うまくいけば学生やスタッフの功績、うまくいかなければ私の責任。こうすると、能動的に取り組む勇気を維持しやすくなるらしい。

もし失敗の責任までとらせようとすると、部下は上司からの叱責が怖いから、もう自分から動こうとしなくなる。指示通りにだけ動き、指示のないことはやろうとしなくなる。能動性を失い、受動的に動くだけのロボットになってしまう。だから、失敗を引き受ける、というのも大切。

安心して失敗を繰り返せる、という安心感が、能動的に取り組むうえで、とても重要であるらしい。考えてみれば、「待つ」「任せる」という行為はいずれも、失敗を引き受ける心構えがないとできない。待っていて失敗するかも、任せて失敗するかも、と思っていたら、待てない任せられない。

「待つ・任せる」は、失敗することも腹くくって引き受けることが前提なのだろう。その上で「待つ・任せる」ことができると、部下や子どもは、能動性を回復しやすくなるらしい。自分で事態を動かせるんだ、という能動感を味わいやすくなるから。

部下や子どもに能動的になってもらうためには、能動感を味わう余地を確保する必要がある。そのためには「待つ・任せる」が必要。「待つ・任せる」は、失敗を自分に引き受ける、ということを前提にしている。これらを指導者が腹に入れると、部下や子どもが能動的になりやすいのでは、と思う。

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