「あなたのためを思って」は、空想を見て相手を見ていない

「関係から考えるものの見方」(社会構成主義)たぶん第23弾。
「お前のためを思って言っている」「あなたのためを思って言っているのよ」という言葉は大概、「いや、自分にとって都合がいいから言ってるんでしょ」と感じるのはなぜだろう?

これはこいつにとっていいことに違いない、と「決めつけている」ことが、やられる側からしたら迷惑でしかない、ということが多い。ただ、本人は本気で「お前のためを思って」言っているつもり。善意だからタチが悪い。自分の正しさを全く疑っていない。だから反発すると恨まれることが多い。

「お前のためにと思って言ったのに、なんだその態度は!」つまりこの言葉からは、「恩恵を授けている」と信じているということが見える。恩恵を与えているのだから感謝して当然、いや感謝すべき、と考えている。それを期待していたのに反発するから、予想に反したので腹が立つらしい。

いわゆる「毒親」を描いた「ゆがみちゃん」という漫画で、幼い頃に父親がお土産を買ってきてくれて、心から「ありがとー!」と言って喜んだという。それで味を占めたのか、父親はことあるごとにお土産を買ってきてくれるようになったのだけれど、どうにもセンスが微妙。喜ぶに喜べない。

しかし喜んで見せないと激怒する。それが面倒くさくて「わーい・・・」と喜んで見せる、という芝居をしなくてはいけなくなった、という話が掲載されていた。うーん、これ、よくある話。相手が喜ぶ顔を見たさに親切にしたのだけど、喜ばないとすごく不満。怒る。

こうした人は、「感謝の要求」がとても強いように思う。恩恵を授けているようで、感謝を要求している。与えているようで求めている。実は、与えているのではなく「請求している」と言ったほうがよいのかもしれない。

「こう言えば、こうすれば、相手は喜ぶに違いない、感謝するに違いない」と「空想」し、その空想通りの行動をとらない場合、相手に強く不満を持ち、怒りをぶちまける。相手は自分の空想通りの反応をしなければならない。テレパシーなどないのに。

人間関係が上手く構築できない人の中には、相手を観察せず、自分の「空想」ばかり見ている人がいる。こうすれば相手は喜ぶに違いない、感謝するに違いない、もし別の反応をしたとしたら、それは相手が悪いのだから怒ってよい、という不思議な考え方をしてしまうらしい。

よく持ち出す例だけど。包丁の語源になった料理人、庖丁(ほうてい)は、王様の前で牛一頭さばいて見せ、それがあまりに見事だから王様、「さぞかしよく切れる包丁なのだろうな」と言ったら、庖丁は「私は切っていません。ヘタな料理人は切るから骨に刃が当たって欠けてしまいます」

「私は牛を虚心坦懐に観察します。するとスジとスジの隙間が見えるので、そこに刃を差し入れれば、ハラリと肉が離れます。切らないから刃がこぼれることなく、もう何年も研いでいません」
この話から、「観察」のコツが見えてくる。

普通の料理人は、目の前の牛を観察するのではなく、空想の中の牛を思い浮かべ、そればかり見てしまうのだろう。しかし現実の牛は空想の牛の通りにはなっておらず、刃が骨に当たってしまい、欠けてしまうのだろう。でも庖丁は、空想を一切排除し、目の前の牛を見るのだろう。

そればかりでなく、恐らく、刃を差し入れて少しでも違和感を感じたら、予想を修正するのだろう。あくまで目の前の現実、牛そのものから教えを請い、自分の方を修正していく。だからスジとスジの隙間に刃を差し入れることができるのだろう。空想に溺れず、観察すること。

でも私たち人間は、すぐに「空想」してしまうらしい。チョコレートだ!と思って食べてみたら「なんだこの味?」と吐き出してしまうことがある。カレーのルーだったり。チョコだと思ったらそうした味をすでに思い浮かべてしまう。そして現実が違うとビックリしてしまう。

人間は、これから取り組もうとする事態に対して、空想、予想を立ててしまう生き物らしい。そうすることで経験済みのことに関しては、ためらわず、スムーズに、適切に対応することが可能になるのだけれど、その分、観察を怠るようになってしまう。空想通りに動いてしまいがち。

観察するには、「まだまだ自分の知らない何かがあるかもしれない」と探す気持ちが必要。「前もこうだったからまた同じに違いない」と決めつけず、「まだ気づいていないことがあるかもしれない」という留保を持つ。そうした気持ちでいるとき、観察は成立するような気がする。

相手に勝手に期待し、期待を裏切られたと言って怒るのは、観察しようとせず、思い込みだけで行動を決めているのかもしれない。そのために、人間関係がギクシャクしてしまうのかもしれない。空想を信じ込まず、相手を観察するゆとりを持たないといけないような気がする。

子どもに対して「あなたはこうすべき、ああすべき、なぜならそれがあなたのためだから」という押しつけは、一種の空想に基づいているように思う。そのとき、子どもはどういう気持ちでいるかを察しようという姿勢が見られない場合、子どもは絶望する。何を言っても聞いてもらえないんだ、と思って。

そうした空想を脇に置き、目の前の子どもを虚心坦懐に観察することが大切なように思う。
ここでまたしても、いつもの例を出すけども。老荘思想家の福永光司氏は、子どもの頃、母親から「あの曲がりくねった木をまっすぐ見るには?」とナゾをかけられた。

その木はどこからどう見ても曲がりくねっていた。福永少年は困り果て、降参した。すると母親の回答は「そのまま眺めればいい」。
私たちは「まっすぐ」と聞いた途端、まっすぐとはこういうものだ、という価値規準を心の中に抱いてしまう。すると、「まっすぐ」か「曲がっている」かしか見えなくなる。

でも「まっすぐ」という価値規準をいったん脇に置き、木を虚心坦懐に眺めると、よい香りがすることに気づいたり、木漏れ日が気持ちいいことに気づいたり、根の力強さ、樹液を吸いに来ている虫たちに気がついたりする。五感が膨大な情報を提供してくれるようになる。価値規準を脇に置いただけで。

母親の「まっすぐ見る」とは、「素直に眺める」という掛詞だったのだろう。このエピソードを読んで、私は、自分の心に価値規準を置いた途端、観察眼が曇るということに気がついた。観察するには価値規準を脇に置かなければならないことに気がついた。

「あなたのために言っている」は、明らかにある種の価値規準を相手に当てはめている。そして相手をその型通りに動くように押し込めようとしている。それが相手に伝わるから、相手は不服なのだろう。従いたくなくなるのだろう。「僕を、私を見ていない」と感じるのだろう。

もし相手を観察できているのなら、ああだろうか、こうだろうか、と、推測の言葉が出るだろう。とても決めつける気が起きず、「もしそうだとしたら、こうしたほうがいいかもしれない」と、「仮説」を述べるのが精いっぱいになるはず。だって、正確に事態を把握できている自信を持ちようがないのだから。

観察をきちんとしている人間は、自分の認知能力には限界がある、ということを自覚する。大して相手の表情から読み取れず、状況をよく呑み込めない、ということもわかるから。だからとてもじゃないけど、決めつける気になれない。

でも「空想」ばかり見ている人は、目の前の相手を観察していないから、現実を見ずに空想ばかり見てしまうから、「確信」を抱いてしまう。空想に空想が補強してくれて、確信を生み出す。だから観察しない人は、断言できてしまうのだろう。

しかし人間はテレパシーがあるわけではないのだから、仮説を立てるのが精いっぱい。なのに決めつけてしまうから、現実との食い違いが生まれて、人間関係がギクシャクしてしまうのだと思う。関係性を良好に保つには、空想に頼らず、現実を観察し、仮説を立て、常に修正することが必要なのかもしれない。

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