「教育を語る」んじゃなくて気づきを紹介してるだけ

前に以下のまとめを書いたけど、「あれ?私は教育を語っていたっけ?」と疑問が。私自身は、振り返ってみると、どうやら教育を語る気はないらしい。教育なんて御大層なものを語ろうという気が私にはない。そもそも自分を教育者だと捉えていないし。

「教師でもない私がなぜ教育を語るのか」https://note.com/shinshinohara/n/ne17d34a664fc?sub_rt=share_b

もちろん、塾では子どもたちを指導していたし、職場でも学生やスタッフを指導したりしてきたが、それでも「教育者」だとという認識はない。たまたまそういう立場に立ち、指導体験がある、ということでしかない。では私はどういうつもりで何を語ってきたのだろう?たぶん、人間についての気づきだと思う。

私は人間を観察するのが大好きで、人が学ぶという現象に興味がある。私自身、勉強が長らく嫌いで、いつの間にか学習を楽しむように変わったのだけど、それはなぜなのか?そして目の前の子どもや学生やスタッフが、学ぶことを楽しむようになる現象に強い関心を抱いてきた。その観察で気づいたことを

私はツイッターなどで紹介してきただけだ、と気がついた。「教育を語る」という大それたことをしようという気がサラサラない。私は私の気づきを述べるだけ。それだけなんだな、と気がついた。
だからなのか。「教師でもないのに教育を語るな」と言われたとき、違和感を覚えたのは。

私はやはり、「教育を語る」なんて大それたことをする気はサラサラなくて、自分の気づきを紹介してるだけで、しかも気づきを紹介するだけなら別に教師でなくてもできるやん、と思っている。それがたまたま教育全般に通じる気づきであることもあるかもしれないけど、あくまで語っているのは教育ではなく

気づきでしかない。一応その気づきは、観察の末に見出されたものであり、仮説を紡ぎ、その仮説に基づいてやってみたら再現性よく良好な結果が得られることを私なりに確認した気づき。再現性が高いことをそれなりに確認しているので、他の人も同じように実施できるなら、同じ結果が得られるだろうと

思われたので、紹介している。しかしそれはあくまで事例紹介であり、それを活用するかどうかは読み手次第。嫌ならスルーすりゃいい。なのに「教師でもないのに教育を語るな」と恫喝する人の意味がわからん。私は教育を語ってるのではなくて、人間に関する気づきを紹介してるだけなのだから。

私は農業研究者だけど、研究者以外の方からのアイディアに感心すること多々。農家の方の気づきのお陰でブレークスルーしたことも何度かある。何なら、農業体験ゼロの人が思いつきでやってみたアイディアが目からウロコだったことも。自分の専門である農業でもそう。

だから、「プロでないならその道を(一切)語るな」と脅しをかけ、黙らせようとするのはおかしい。それに、その人達はその分野全般をわかったように語っているわけではない。あくまで気づきを紹介してくれているだけ。気づきを語ることを「その道全般を語る」というふうに拡大解釈し、批判するほうがおかしいと言えるだろう。

気づきの素晴らしいのは、何もその道のプロでなくても発見できる点。むしろその道が長いと、すべての現象を当たり前に思い過ぎて気がつきにくくなっていることが少なからずある。そこで素人の方が「なんでこうするんですか?」と質問してくれたことで、初めて「そうする必然性はない」ことに気づく。

「裸の王様」は象徴的な物語。王様や城と仕事関係で利害がある人々は、たとえ裸だと思っていても言えなくなり、いつの間にか自分でついた嘘を信じ込むようになり、疑いも持たなくなってしまう。いっそ、そうした利害関係に囚われていない子ども(素人)のほうが、真実を言い当ててしまうことはよくある。

「オレはプロよりもこの分野を知ってる」と語るなら、それは傲慢だし、プロへの敬意を欠いていると言えるだろう。しかし「いや、その道ではそれが常識とされてるのかもしれないけど、私が気づいた現象は間違いなく起きてるし、再現性もいいんだよね」と、気づいたことを語るのは何の問題もない。

「和氏の璧」というエピソードがある。見事な玉(中国の宝石)の原石だと思った和氏は、王様に献上した。ところが専門家から「ただの岩石に過ぎない」と鑑定され、「騙そうとしたな」と怒った王様に足をへし折られた。
次の王様に献上したところ、またしても偽物という鑑定。両足へし折られた。

和氏は悔しさのあまり、原石を抱いて泣いていた。そこを通りかかった王子が、試しにその原石を職人に磨かせてみると、これまでにない見事な玉であることが判明。この玉は「和氏の璧」と呼ばれ、当時の王様たちがこぞって手に入れたがる、歴史に残る宝石となった。

なぜ和氏の璧は、専門家からただのクズ石だと鑑定されたのだろう?恐らく、「玉の原石ならこういう特徴があるはずだ」という、それまでの常識に囚われて、その原石の可能性に気づくことができなかったのだろう。和氏は自ら原石を磨こうとしなかったところを見ても、専門家ではなかったのだろう。でも。

「これは、これまでの常識を覆す原石だ」と気づく何かがあったのだろう。専門家ではないからこそ常識に囚われず、気づくことができたのだろう。和氏なりに、こうした特徴がある場合は玉の原石として優れている、という確信を持てる気づきがあったのだろう。

専門家の意見は軽んずべきではない。やはり、専門家が持つ常識には、一定の有効性があるからだ。しかし、それは「これまでに見たことがあるもの」には適用できる常識であっても、常識に当てはまらないものに出会う可能性を常に心のどこかに専門家も置くべきもののように思う。

素人でも、その人が和氏のような気づきをもたらしてくれるかもしれない。王様が裸であることを喝破した子どもかもしれない。素人や子どもの言うことからもヒントを得る、「開かれた心」を、専門家でも備えたほうが私はいいように思う。

若い頃、棟方志功は自分の芸術論に絶対の自信を持ち、周囲をバカにしまくり、他人に耳を貸さない人だったらしい。ところが柳宗悦と出会い、何の芸術論も持たないであろう一般の農家が作った民芸品の美しさに気がついたとき、棟方は姿勢を大きく変え、素人からもヒントを得ようとしたという。

子どもや若者と接することは、日常の風景。何もプロだけではない。いやむしろ、私たち素人が関わらざるを得ない分野。そこでの気づきを紹介することに、何のためらいも持つ必要はないように思う。その気づきを紹介することを「教育を語る」と拡張解釈し、「素人が語るな」というのは、横暴だと思う。

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