違和感東大卒の発生原因

経験上、東大卒の2〜3割に強い違和感覚えることがある。これは恐らく、日本の最高学府(の中の最高)であることに結構原因があるように思う。
違和感東大卒は、東大卒であることを誇りに思うと同時に、東大卒であるからこその強迫観念を持っている気がする。
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非常に優れた東大卒の方は大勢いて、その人たちは自分の知らないことがあることを平気で認めるし、他者が自分より優れているところを見つけるのがうまいし、称賛を惜しまないし、人から教えを乞うために低姿勢になることもいとわない。人間的な魅力を兼ね備え、私はその人たちを敬愛してやまない。

でも2〜3割くらい、違和感を覚える東大卒がいる。東大卒であることを陰に陽に自慢する。すぐ知識をひけらかす。謙譲の言葉に自慢とイヤミをしのばせる。社会的地位の高い知人がたくさんいることをそれとなく、のように見せかけて、でもあからさまに自慢する。

とある大企業社長の御子息が結婚するとやらで、なんでか私も招待された(ろくに知らない人)。2人、大学教授が挨拶してたのだけど、2人とも話の中で東大卒であることをほのめかし、高名な先生と何人も友達であることをあからさまにほのめかし・・・お祝いの言葉の方がオマケ感があって面白かった。

もう60歳を超えてると思われる人が、まだ東大卒であることを自慢してる時点で恥ずかしくないのかな、と思った。たかが20歳未満の若造の学んだ内容なんてたかが知れてる。それをいい年こいた人が自慢気にぶら下げてたら、「あんたその後の人生、何してたん?」と心配になる。

びっくりしたのは80歳を過ぎた人が東大卒であることを自慢したとき。まあ、東大卒であることは別の人が明かしたのだけど、手を振りながら嬉しそうに、「官僚の〇〇という事務次官は友達だ」とか、自慢が続いた。どうやら、東大卒であることをおつきの人に言ってもらうまでが仕込みの芸であるらしい。

で、私がそうした違和感東大卒と出会って感じるのは「東大卒であることに呪われているなあ」ということ。
東大卒のとある大学教授から教えてもらったところによると、東大に入学したとたん、コンプレックスを持つ東大生は多いのだという。

地元では優等生として生まれてこの方やってきて、自分の才能に自信を持っていたのに、東大に入ったら本物の天才がゴロゴロいて、しかも、逆立ちしても勝てるものではないことを思い知らされるのだという。自分は天才だ!と思っていた学生は、ここで現実を思い知らされる、と。

それでいて、勉強してるのが当たり前の空間で、え?この偉人の本読んでないの?とすぐにバカにされてしまいかねないので、普通の東大生はついてくのに必死になるけど、必死になっても、本物の天才ははるか先を進んでるからどうにもならない現実を思い知らされるという。で、コンプレックス。

こうしてこじれてしまった東大生がある一定数発生するらしい。篠原調べの2〜3割というのが実態にどれだけ近いのかはわからないけど、他の大学卒と比べても、こじれた人と出会う確率は少なくないなあ、むしろ高いなあ、と思う。これは最高学府だからこそなのかもしれない。

私なんかは3度目の正直でヒイコラ京大になんとか受かったクチで、同級生は私より優秀なのは当たり前だと思っていた。たまたま同じクラスに、当時の全国模試で常にダントツの一番を取り続けていた学生もいたから、勝てるわけないやん、とハナから諦めていた。

勉強でも、コイツラにはかなわないな、と思った。私にはチンプンカンプンな内容でも100点とってくる。これは頭の出来が違うわ、とさすがに思った。私は必死こいてどうにか卒業できるかな、という状態。幸い、自分の才能のなさを自覚してたからその意味でコンプレックスはできなかった。

私が逆立ちしても太刀打ちできない人間がゴロゴロいる。それはよくわかった。ただ、私は私で、彼らにない経験とノウハウがあり、それは私の強みでもあると思うことができた。だから素直に自分の至らないところ、相手の優れたところを認めることができたのかもしれない。

しかし東大生の少なからずが、学業に絶対の自信を持っていたのに、それで勝てない人間がゴロゴロいる、とわかったとき、こじれることがあるらしい。その時、東大卒であることがむしろ「呪い」になってしまうことがあるらしい。

さすが東大卒、と言われ続ける存在でいなければならぬ、知らぬことはないフリをせねばならぬ、博識であるところを見せねばならぬ、誰よりも賢明であることを示し続けねばならぬ・・・そうした「呪い」に囚われてしまう東大卒が、一定数生まれてしまうらしい。

ただ興味深いことに、若い人でそうした呪われた東大卒に私はまだ出会ったことがない(篠原調べ)。若い世代は、東大卒であるがために肩肘張らねばならぬ、という呪いから自由になれているのかもしれない。もしそうなら、とてもよいことだと思う。単純に学ぶことを楽しめるだろうから。

違和感東大卒は、ある一定の年齢以上で目立つ。もしかしたら、東大を卒業してからの人生で、違和感東大卒に変質してしまうのかもしれない。だとすれば、呪われていない様子の若い世代も、違和感東大卒に変質する可能性はまだ否定できないのかもしれない。

でも、たかだか二十歳前後の学力でしかない話にしがみつくのは、やはり恥ずかしいことのように思う。その後の人生の方が長い人ならなおさら。それに、自分より優れた部分が他人の中にあるのは当たり前だ。必死になって自分の方が上だと示すことのせせこましさは自覚したい。

他人の優れたところを称賛し、尊敬するゆとりのある人の方が、懐を大きく感じるもの。違和感東大卒の方も、それはわかっているはず。東大卒は他の人達より上だ、と必死に訴えるその必死さがなんだか物悲しいものであることに気づいてほしい。優れた東大卒はそんなこと言わないもの。

人と比較するのではなく、学ぶことを楽しむ。それを東大に入学しても続けてほしい。東大を卒業したあとも、自分のペースで構わないから、学ぶことを楽しんでほしい。たったそれだけのことで、違和感東大卒になってしまう確率はグンと低くなるように思う。

違和感東大卒になる原因は恐らく、他人と比較すること、他人の目を気にし過ぎるところから生まれる。他の有名大卒でも、違和感有名大卒になるケースはあるけど、東大はこじらせるケースがダントツに多い気がする。それは比較すること、されることのために起きている気がする。

まあ、私がわざわざ東大卒だけをあげつらっているところを見ても、東大卒は最高学府として注目され、他人から好奇の目で見られてるから、余計にこじれやすいのだろう。最高学府であるがゆえの病弊といえようか。しかしそれでもなお。

他者がどう言おうと、「知らんもんは知らん、教えてーな」と笑って言える太い精神、他人の優れたところに素直に驚嘆できるみずみずしい心、そして学ぶことを楽しむ気持ち。それさえあれば、人生は楽しんでいけるように思う。

いつの日か、東大卒も、そうでない人も、東大をそこまで特別視するのではなく、共に学ぶことを楽しみ、知らないことを相手から学ぶ喜びを共有し合えるようになるといいなあ、と思う。呪われた違和感東大卒がいつか消えてなくなりますように。

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