エンターテイメント産業をすべての人々の手に取り戻す

私は社会・経済に対し、少し変わったものの見方をしている。ある程度のエッセンシャル・ワークを除けば、多くの職業は「エンターテイメント」ではないか、と。
新型コロナの第一波では、8割の人手を減らす努力が払われた。一時的な措置とはいえ、エッセンシャル・ワーカーの人達が働きさえすれば。

私達は生きていけることが明らかになった。多くの職業は、社会に住む人々が生きていく上で必ずしも必要がないことが、あのとき、ある程度、可視化されたように思う。

私達の日常には、エンターテイメントが溢れかえっている。子どもの筆箱には、かっこいいキャラクターやかわいいキャラクターがあしらわれている。クツも色とりどりのものが用意されている。どうせ捨てるものなのに、機能さえあれば十分な気がするのに、絆創膏にもキャラクターがあしらわれていたり。

しかし、このエンターテイメントの力は侮れない。つけるのを嫌がっていた子でも、大好きなキャラクターがあしらわれた絆創膏なら喜んでつけてもらったりする。実用性だけでは大事にしないものも、お気に入りのデザインになっただけで長く愛用される品になったりする。

共産主義が失敗し、ケインズによる修正資本主義が成功したのも、このエンターテイメントの力があるように思う。どうしたわけかソ連などの共産主義国は実用性を重視し、エンターテイメントを「資本主義の浮ついた虚飾」として排除しがちだったようだ。エンターテイメントをバカにしすぎていた。

他方、ケインズ経済学は「ムダ」も経済的には意味があると捉えていた。ケインズ自身はそうは言っていないらしいが、穴を掘って埋めるだけの、何の生産性もないムダな仕事でも、人々に仕事を作り、それによって給料を渡せ、その給料でモノを買う消費行動を促せる。それは経済を活性化させる、と。

ムダなことでもそれが仕事になり、それがお金になり、消費行動を促せるなら、経済は活性化し、世の中全体にお金は巡り、人々は豊かに暮らせる。ケインズ経済を採用した欧米でエンターテイメントが発達し、共産主義国から見て楽しそうで幸せそうな世界を作れたのは、エンターテイメントの力だった。

もし、実用的なことしか仕事と認めない、となると、多くの人がヒマに。実用的な仕事は限りがあるから、そこにたくさんの人を配置すると「自分がやらなくても誰かやるだろ」と無責任になりやすい。共産主義が失敗した原因の一つに、エンターテイメントを仕事にしなかったことにあるのでは?

戦後昭和の日本が「世界一成功した社会主義」とまで呼ばれたのは、貧富の格差が小さく、皆、報酬をそれなりにもらえる社会であり、つまり失業が少なく、何かしら仕事があり、皆が消費活動を行える社会だったからだろう。それを実現する上で、エンターテイメントは重要な要素だったように思う。

音楽をどこでも楽しめるものにしたウォークマンは、生きる上で必須の製品かと問われれば、そんなことはない。ひどいこと言えば、音楽だって生きるのに必須なものではない。しかし音楽は私達を楽しませてくれ、喜怒哀楽を刺激する。それを歩いていても、電車に乗っていても楽しめるようになった。

こうしたエンターテイメント要素の強い商品が、ケインズ経済の中でも次々に生み出され、新たな仕事を創造し、それが収入をもたらし、消費を促し、経済を活性化させた。実用一辺倒な共産主義では実現できなかった「楽しさ」が、ケインズ経済では実現できていた。

こうしたエンターテイメント社会の原動力を新自由主義に帰する人が少なくないが、私はミスリードだと思う。ケインズ経済のシステムでやってきた日本もエンターテイメント産業で成功してきたからだ。エンターテイメント産業は新自由主義の専売特許ではない。

ただ、ケインズ経済も昔通りに実行するわけにいかない。例えば「地面掘って埋める」では、資源もエネルギーも浪費する。経済を活性化させるためには資源やエネルギーを消耗して構わない、という形の「ムダ」は、地球環境や資源問題を考えると、もはや許されない。

資源やエネルギーを大量に消耗する「消耗型産業」は、今後、控えねばならないことになる。しかしどうやら人間は、エンターテイメントなしにはつまらなくなる生き物。消耗型ではない形のエンターテイメントを創り出し、それによって経済を回す必要がある。

その点、インターネットは小消耗型労働、小消耗型消費を可能にするかもしれない。スマホで動画を見るのは、エンターテインメントの主流になりつつある。スマホも資源とエネルギーを消耗するが、クルマを乗り回すよりは鉄の使用量もエネルギー消耗も随分小さい。その割に人を楽しませる力がある。

ただし、インターネットにも問題がある。新自由主義が支配的なアメリカがインターネット世界を牛耳ってきたという歴史を背負っているためか、インターネット産業は「人を雇おうとしない」という特徴がある。なるべく少数精鋭でサービスを構築し、ボロ儲けしたお金は少数で独占する傾向。

こうした「少人数」で運営できてしまうインターネットは、株主資本主義とも相性がよく、人を大勢雇用してきた産業の食い扶持に侵食する形でインターネット産業が伸び、そしてインターネット産業は人を雇わない分、経費が少くて済み、獲られた利益を経営者と株主でガッポリ分け合うことができた。

しかし、人を雇おうとしないということは、多くの人々は仕事を失うか、わずかな仕事を取り合い、低賃金でも文句が言えなくなるということ。インターネット企業はエンターテイメント産業の利益を独占するようになり、その利益は経営者や株主、わずかなエンジニアだけで独占する構造。

エッセンシャル・ワークはあまり多くの人を必要としない。しかしエンターテイメント産業はインターネット企業が蚕食し、そこも人を雇わなくなっている。こうした構造が中流階級を壊し、食料や必要な物資まで手に入らなくなり、生活が苦しい家庭を増やしている。

「有能な人間以外は要らない」と株主資本主義の人達は言うが、必要かどうかという視点でモノをいうことが、そもそもおかしい。理由は2点ある。ケインズ経済でも、人は余っていた。有名な話では、パナソニックの前身、松下電器の社長だった松下幸之助は、当時の首相をたしなめたことがある。

当時、三木首相は、景気が悪い中でも低い失業率で済んでいる日本のことを自慢していた。そのとき松下幸之助は、「いま、日本の会社は、みんな失業者を抱えとるのや、私どもでも一万人は遊んでいる」「ほんとういうたら日本でも300万人くらい、すぐ出ますえ。出してもよろしいか」

つまり、戦後昭和の日本企業は、雇用し、人々に収入をもたらし、消費し続けてもらうことが社会を維持する上で重要だということを、経営者たちはわきまえていたということ。しかし今のインターネット企業は、そのことを理解せず、人件費をただのコストとみなしている。

もし、人をコストとみなし、できる限り人を雇わずに済ませよう、経営者と有能者と株主だけで利益を独占しよう、とし続ければ、貧困層はますます困窮し、やがてその格差が生み出す怨念は、共産主義やナチスを生み出し、富者の全財産を奪い、あるいは虐殺する、戦前と同じ社会状況を生むだろう。

そうならないようにするためには、インターネット企業も松下幸之助氏らの生きた時代の経営者を見習い、利益を独占しようとせず、多くの人々に収入をもたらし、中間層を生み出す努力を始めるべきだと思う。

戦前に生まれた共産主義が、エンターテイメントをややバカにする傾向があったのは、マルクス経済学が実用本位の考え方(使用価値)をしていたこともあるが、金持ちを憎むあまり、彼らがうわついた奢侈贅沢を楽しんでいたことを恨みに思う気もちも手伝っていたかもしれない。

しかし私は、エンターテインメントが持つ力を軽視すべきではなく、金持ち憎しの感情とは分けて考えるべきだと思う。そして、金持ち憎しと、インターネット企業も分けて考えた方がよいと思う。小消耗産業で、多くの人に仕事と収入を齎す可能性のあるインターネット産業を、うまく活かすべきだろう。

ただし、経営者と有能者と株主だけで利益を独占してきたインターネット企業も、そろそろ腹をくくってもらう必要がある。このまま格差拡大するのを放置すれば、インターネット世界を破壊してでもその支配構造を破壊しようとする思想が生まれても不思議ではない。そうなれば破滅的。

私が株主資本主義を非難し、格差是正を強く訴えるのは、現在利益を独占している人達にも死んでほしくないし、殺されるような凄惨な目に遭ってほしくないから。なるべく軟着陸させたい。「誰一人取りこぼさない」で、楽しい社会をつくりたい。そのためにも、エンターテイメントをすべての人々の手に。

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