「自分らしく」と協調性は矛盾しない、強要が協調性と主体性を破壊する
「自分らしく」考。
渡辺美里「悲しいね」に、自分らしく生きることは一番勇気がいる、という歌詞がある。槇原敬之「どんなときも」にも、自分らしく好きなものを好きと言えることを大切にしたいというセリフがある。そういう歌が流行したのは、それだけ自分らしく生きることが難しかったのだろう。
そうした流れもあってか、「主体的な学び」ということが尊重されるようになっている。いじめの問題も、それぞれが自分らしくあることを尊重しよう、ということが強調される。そのためか、学校も着実に変わってきているように思う。しかし時折、「主体的に」「自分らしく」を強調する人の中に、
求める相手、間違ってへん?と思うことがある。
NHK「オドモテレビ」で面白いパントマイムがあった。フラフープをくぐると動きが完全に止まり、動けなくなるフリをすると、年かさの子は、無言のうちにもその空気を読み取り、自分もフラフープをくぐると止まってみせた。
さて、小さい女の子もフラフープをくぐらせようとしたところ、「動けなくなっちゃう!」と恐怖を抱いたその子は、舞台から逃げ出してしまった。
これらのシーンはある意味象徴的。この小さい女の子を「空気の読めない面白くないやつ」扱いするシーンを、社会の中でたくさん見ないだろうか?
比較的最近流行ったAdo「うっせぇわ」も、協調性を求める年配者からの圧力を「うっせぇわ」と嫌がっている。しかし現実社会でこれをやると「協調性のないわがまま、身勝手なやつ」扱いされるのではないか。
子どもに、若者に主体的であれ、自分らしくあれ、と求めるのは、方向性が間違っているのでは。
主体性、自分らしさを子どもや若者に求めるのは間違っている。もし子どもが自分らしさを主張し始めたら「空気読まないヤツ、協調性のないヤツ、ワガママなヤツ」とレッテルを貼り、排斥するなら、どうして主体的で自分らしく生きることができるだろう?求める相手は子どもではない、大人の側。
人間は関係性の生き物。フラフープをくぐれば止まってみせる、というゲームだと察した年かさの女の子が、自分も止まって見せたのは、「このゲームに君もつきあいなよ」と求めるパントマイムの大人との関係性を重視したからにほかならない。他方、小さな女の子が逃げたのは、関係性以上に自分らしさを
重視したからにほかならない。関係性を重視しろ、協調性を守れと強いる人がいる中で、自分らしさ、主体性を維持するのは困難。もしそうしたら排除排斥されることが目に見えるのだから。自分らしく、主体性を大切にすることは、孤独になることを意味しかねない。
つまり問題は、各人が自分らしさや主体性を失うことが問題なのではない。自分らしさを、主体性を捨てろと暗黙のうちに強要する集団の側にある。各人が自分らしさ、主体性を失うのは、集団の側がかける同調圧力のほうにあるのだろう。
ここまで見てくると、協調性を求めることは自分らしさや主体性を奪うことのように見えてくる。実際、大人の中には「自分らしさ?主体性?クソッタレ!そんなんで仕事ができるか!社会に出てやってけると思うのか!」という声をよく聞く。
果たして自分らしさ、主体性は協調性と矛盾するのだろうか?
マンガ「ワンピース」で、ルフィをとりまく仲間たちは、実に個性的。自分らしさや主体性を一人も失ってはいない。だけどみんな協調的。
劉邦の周りには張良、簫何、韓信、樊噲、叔孫通ら個性的な人材が揃っている。彼らは劉邦を盛り立てるために協調して動いた。協調性と自分らしさは矛盾しない。
他方、自分らしさを失わせる協調性というものがある。ルールや正義を盾に取り、こちらの要求通りに行動しろ、と強要する場合。恐らく、協調性と自分らしさが矛盾するのではなく、「強要」と矛盾するのだと思う。強要は自分らしさを否定し、自分に従えと命令する、結果的にも協調性を破壊する行為。
自分らしくあれ、主体的であれと要求しながら、こちらの要求通りに行動しろ、と強要することに、大きな問題がある。各人の自分らしさ、主体性をそのまま活かしながら協調することができる「組み合わせ」、関係性をデザインすることが大切なのではないか。
「うっせぇわ」が流行するところを見ると、いまだに「オレの言う事を聞け」という強要をする人がそれなりにいることの証なのだろう。
最近、指示通りに動く指示待ち人間を欲しがる人がいる。部下に主体性なんか求めていないと公言する人が増えているように思う。しかしそれは単なる身勝手なのでは?
強要する自分の側の身勝手はそのままにして、自分らしさ、主体性を奪われる側の要求は飲まずに「ワガママなヤツめ」と罵るのは、単なるワガママ、身勝手のように思う。今の若者は身勝手だ、と批判してる年配者こそが身勝手なのではないだろうか。
自分らしさや主体性が一見、協調性と矛盾して見えるのは「こちらの期待通りに動け」と、行動の自由がない、特定の行動をするように強要する人がいるためではないか。集団に協調しろといいながら、実は「オレの言う通りにしろ」という身勝手な支配者が、自分らしさも協調性も破壊しているだけなのでは。
集団に参加する人間に一様の行動を求めるリーダーがいるとき、「協調性」と称されるものは、実は、リーダーの身勝手な要求通りに動け、と強要している者に過ぎない。実際には協調性は、自分らしさと矛盾しない。むしろ楽しい協調性は、自分らしさと共存するときに生まれる。
「あいつは協調性がない」とぼやく人は、実は強要しているのかも。各人から自分らしさを奪い、こちらの思い通りにしか動かない「同じ部品」として振る舞うことを求めているのかも。
しかし、楽しい協調性は、各人の自分らしさを有機的に組み合わせるデザイン力にかかっているのかもしれない。