「情報を抱え込む」から「情報を捨てる」へ

「勉強できない子」は複雑に考えすぎてこんがらがってる、ということを指摘したらえらくバズったけど、実は私自身がそうした子どもだった。「太郎君は徒歩で、花子さんは自転車で駅に向かった」という文章題を読むと、「なんで花子さんは太郎君を乗せて上げんかったん?二人乗りアカンから?」

計算をする際、太郎君や花子さんであるという重要な情報も捨てずに活用しなければ。徒歩であるというのと、自転車でというのも大事な情報、捨てちゃいかんよな、などと複雑に考えていたら、一体どこからどう手をつけたらよいのかわからず、式を立てることすらできなかった。

文章題の3行目を読む頃には、1行めに書いてあったことを忘れてる。また繰り返し読むのだけど、頭に入ってこない。今思えば、すべての情報を捨ててはいけない、という恐怖があり、抱えすぎた情報量に頭がパンクしていたのだと思う。

その悪循環から抜け出すきっかけを得たのは、国語の先生の一言だった。「数学の文章問題は、まず数字をマルで囲んでごらん。そして数字と数字の関係だけ考えるんや」
試してみると、太郎君や花子さん、徒歩や自転車という情報が背後に押しやられ、数字の関係性だけ取り扱えることに気がついた。

「なんや!式を作るとき、太郎花子、徒歩自転車って情報捨ててかまへんのか!」数学は、情報を捨てられるだけ捨てて、数字の関係性だけに削ぎ落とす、「捨てる」学問だと、その時初めて気がついた。「なるべく考える材料が少なくて済むよう、情報を捨てるのが大切やったんかい!」

それが中学2年の3月期あたりだったと思う。それまでは文章題は壊滅的だった。複雑に考えすぎて頭がバースト。考えすぎによる疲れで、もう理解する気が失せていた。僕は文章題が苦手、と思っていたけど、「情報を捨て数字の関係性だけ拾う」コツをつかんでからは、得意になった。

これは恐らく、国語にも翻った。国語の長文読解も超苦手で、「著者は何を言いたいのでしょう?」という問いかけに対し、文章全体を読んで汲み取ろうとするのだけど、その文章が含む情報が多すぎて抱えきれず、パンクしていた。でも数学での成功体験を応用し。

問われていることに関する情報だけ抜き出せないか、ということができるように。それ以外の情報は無視。捨てる。それができるようになったら、国語の長文読解もできるようになった。「何や!国語の問題って、文章のごく局所的なこと尋ねてるだけやったんか!全体が醸す情報、いらんかったのか!」

受験問題って、情報を集めるというより、情報を捨てる作業。今の目的にとって価値の小さそうな情報は思い切って捨て、関係の深い情報だけを拾う。そしてそのわずかに生き残った情報と情報の関係性だけに着目するという、極めて省エネな、要領のよい、でも当時の私からしたら「小ずるい」やり方が大切。

中学2年の終わりから成績が伸び始めたのは、情報を捨てる、という、極めて重要なコツをつかんだから。でもそれまでは、よく「情報を集める」なんてニュースなんかでも言ってるし、いかに情報をたくさん集めるか、そして情報を捨てずに全部取り扱うことが大切か、なんて思ってたから、意外だった。

「情報を捨ててはいけない」から、「情報を捨てなければならない」への転換。これが、小学生から中学生に変わるとき、劇的に起きる。
早くから学習を楽しんでいる子は、膨大な情報を扱いながら、必要な情報をチョイスするのが自然に上手くなる。でもそうでない私のような子どもは。

そもそも、膨大な情報の海を前にして茫然とし、どこから手をつけたらいいのか、皆目見当がつかなかった。国語教師の「数字だけマルで囲んでみろ」という一言が、目のつけどころを与えてくれ、膨大な情報から必要な情報だけを抜き取るコツをつかませてくれた。

「勉強のできない子」の少なからずが、私のように複雑に考えすぎ、情報は捨ててはいけないものだと考え、いかにすべての情報を取り扱いながら処理を進めるか、ばかり考えてるように思う。そして過重負担のためにオーバーヒート。かえって思考が停止する、という事態に。

そういう子に、「複雑に考えすぎるな」と言ってもムダ。「情報を捨てろ」と言っても捨てられない。「またまた、そんなこと言って、もし大切な情報捨ててしまって間違ったらどうすんの?オレを騙そうとしているな」と警戒して、よけいに情報を抱え込もうとすることが多い。

数学の文章題なら、「数字だけマルで囲んでみ」、それが終わったら「数字と数字の関係、どないなっとる?」と聞くとよいように思う。情報を捨てても、いやむしろ情報を捨てた方が数字の関係性が浮かび上がり、計算可能になるという「発見」をして驚くことになる。指導者は、その発見に対し、

「お、よくそれに気がついたな」と、軽く驚く感じで喜び、「その調子でやってみ」と勧めるとよいように思う。子どもは、自分の中に起きた「発見」を自分のものと感じ、嬉しくなって、その「発見」を他の問題にも応用できるか、試したくなるように思う。

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