任せ、委ねる、待ち、祈る、工夫・挑戦・発見(差分)に驚き、面白がる

私が中学受験にやや批判的な理由の一つ、それは「安心できる家庭、家族」を失い、一定数の子どもが非行に走り、場合によっては少年院に入ることになるから。昔から少年院に来る子どもの中に、猛烈教育ママ(あるいはパパ)の指導が厳しすぎて非行に走り、少年院入りする子がいる。

農水省元事務次官が自分の息子を殺すきっかけになったのは、息子が通り魔事件でも起こしてやろうかとほのめかしたことだと言われる。本当にやりかねないと不安になって殺した、と。
その息子は中学生になるまでは優等生で、お父さんが家庭では絶対的に偉い人、という感じになっていた様子。

なぜ優等生だった子がそこまで転落していくのだろう?私が思うに、親がハードル上げすぎなのが大きな原因のように思う。
目標を高く掲げて、それにどうやら到達できそうにもないと感じた時、一気にモチベーションが失われ、自信を失い、「もうオレはダメだ、人生台無しだ」と絶望してしまう。

高い目標は本来、到達しなくても構わない目標だったはずなのに、いつの間にか必達のノルマとなり、親もその「ノルマ」がこなせそうにないと感じると焦り、尻を叩くようになる。子どもは安心して過ごせる家庭、家族がなくなり、牢獄の看守に見張られている囚人のような生活になってしまう。

そうした子が一定数生まれる。その子たちも焦りさえしなければ、その子たちのペースに合わせて能力を少しずつ開発すれば、私のように遅れ気味でも能力を高めることができたろうに、と思うと、もったいないし悔しい。しかし中学受験で躍起になる猛烈教育ママ(パパ)は、もう冷静さを失いがち。

私は、家庭は、船で言うなら港のようなものだと思う。外に航海に出て、燃料が尽きそうになる前に港に入り、船を整備し、燃料を蓄え、英気を養う。そしてまた大海原に漕ぎ出る。次第にその距離が増していくのが子育て。家は港でないといけないと思う。

なのに家に戻っても牢獄の看守が見張って、寝る時間も削って勉強しろと迫るようでは、疲弊する。こういう家は絶滅状態だと願いたかったが、都会で子どもたちの面倒をみてる友人によると、まだまだたくさんいるらしい。家が牢獄になってしまっている。

ただ、昔と違うのは、昔のいわゆる不良、非行少年のような現れ方をする子は余りないらしい。内側にこもる形で動かなくなる。いわば引きこもり。これは恐らく、昔と違い、有人とつるめる空間が失われているためだろう。農水省元事務次官の息子も、半分引きこもっていたようだ。

家が休める場所でなくなったからこそ、究極の休みである引きこもりとなって親に反逆するようになる、というのは皮肉な現象。猛烈教育が休みを与えないからこそ、子どもは頑なに動こうとしなくなるのかもしれない(引きこもりは別の要因でも発生することに注意して頂きたい)。

休める場所を失ってしまったために、心も体も動けなくなってしまった様子を見ると、「フランダースの犬」のパトラッシュを思い出す。最初の主人に厳しく鞭打たれ、荷物を運べと命令され、ついに心砕けて動けなくなり、もう死のうとしていたパトラッシュを、主人公のネロが介抱する。

ある程度体力を回復してきたとき、パトラッシュは自らミルク壺を引く荷車を引こうとする。ネロは「まだ回復したばかりなんだから休んでいなきゃダメだよ」と止めようとする。そう言われれば言われるほど、パトラッシュはネロのために働きたくなって、荷車を引き始めた。

パトラッシュは、前の主人が鞭打つ中で引いた荷物よりもずっと重い荷物を引いて運べるようになった。体力が回復しただけではない。それは恐らく、ネロがパトラッシュに何も求めようとしなかったから。そして荷を引くとネロが驚き、喜んでくれるから。だから力が湧いたのだと思う。

「フランダースの犬」は小説でしかない。しかもパトラッシュは犬でしかない。でも、パトラッシュが最初の主人のもとでは働く気を失い、心も体も病んでしまったのは、分かるような気がしないだろうか。そしてネロのもとなら頑張りたくなる気持ちもわかる気がしないだろうか。

私はスタッフや学生の指導でも、子どもたちの指導でも、期待値をゼロにすることにしている。私の指示通りになんか動くはずがない、人間は好きに動く形でしか動けない生き物なんだから、と考えている。つまり、一切期待しない。ある意味、信じていない。私の名前は「信」だけど。

私の職場に、全然働かないことで有名な人がいた。その人に仕事を頼んでも全く動いてくれなくて困る、とこぼす人だらけだった。ある仕事で、私はその人と組むことになった。私はその人に全く期待せず、その人が担当の仕事もぜんぶひっくるめて自分で全部やる気でいた。

すると、その人が私を手伝ってくれた。実は、本来ならその人が担当している仕事だけれど、私は自分で全部やるつもりだったから、やってくれるんだ、それは助かる、と思って、心から「ありがとうございます!それやってくれるとほんと助かります!」とお礼を言った。すると。

その人は私を喜ばそうと、あれをしようか、これをしようかと積極的に動いてくれるようになった。なんならその人の担当する仕事を終えたうえで私の仕事を手伝ってくれた。私は本当にその貢献がありがたく、「うわー、ここまでやってくれたんですか!本当に助かります!」と感謝した。

その人はその後、私の案件に関しては本当によく働いてくれるようになった。他の人の案件はどうやら気乗りしないらしく、相変わらず職場での評判は悪かったようだけれど。
なぜその人は、私と他の人とで対応が違ったのだろう?恐らく、他の人はその人に期待し、私は期待しなかったからだろう。

他の人は「あなたの役職ならこれをやるのが当然でしょ」と期待し、それをやってもらっても当然だとみなし、大してお礼も言わないし、感謝もしなかったのだろう。だからその人は、やる気が出なかったらしい。他方、私は全く期待していなかったから、動いてくれたことに驚き、喜んだ。

その反応がその人にとっては嬉しかったらしい。私の案件をこなすことは楽しくなったらしい。私が少しも期待していないものだから、何か一つやるたんびに「おお!これもやってくれたんですか!助かります!」と驚き、喜ぶから、楽しくなってしまったらしい。その人は、私にとっては働き者だった。

奇妙なものだ。人間は期待されるとそれが重荷のように感じられて、やる気が失われる面があるらしい。他方、期待されておらず、それだけに何か一つ貢献するだけで驚き、喜んでくれる人のためならもっと頑張りたくなるらしい。最初の主人にはやる気が出ないけどネロには貢献したいパトラッシュのように。

人間心理の奇妙な現象として、もう一つ、「期待してあげることは相手に対してのプレゼント」と思い込んでしまうフシがあること。
私は若いころから、こんなフレーズを何度か聞いたことがある。「信じていたのに裏切られた」。

どうやらこの人は、「自分が信じて「あげた」のに、それに感謝もありがたいと思わず、信じた通りの行動をしなかったことが許せない、私が信じたのだから信じた通り、期待した通りにあなたは動かねばならない義務があるのに」と考えていたらしい。これ、実に不思議に思わないだろうか。

勝手に信じたり期待したりしただけのくせに、「私が信じたり期待するのはめったにない恩恵なのだから、有り難く思って、私の期待する通りに行動しなさい」と、相手の行動と思考を縛ろうとする。勝手に恩を売ったつもりになって相手を拘束しようとする。実に厚かましい話ではないだろうか。

これと似ているのが「よかれと思って」。「これはあなたのためを思って言っているのよ」と、相手のためを思って言う言葉は真摯に受け止め、その通りに行動しなければならない、もしその通りにしなければあなたは裏切り者、恩知らずである、という「縛り」をかけようとする。

勝手に「善意」を押し売りしてきたクセに、相手の思考と行動を縛り、自分の意向通りに動かそうとするのは「ゆすり・たかり」のたぐいだと言える。信じること、期待すること、「よかれと思って」などは、すべてゆすり・たかりと考えてよいのではないか。

子どもに強い期待をかけてプレッシャーを与え、「よかれと思って」子どもの勉強に関して先回りして準備し、強制し、尻を叩いて、しかもそれらの要求に対して「あなたのためを思ってやっていることなのだから感謝してちょうだい、恩に感じてちょうだい」と要求する。厚かましい話ではないだろうか。

私は、人間はアマノジャクな生き物だと考えている。期待されればされるほどその通りに動きたくなくなる。「よかれと思って」いろいろ準備されると、そちらの方には進みたくなくなる。それでもまだ小学生の間は素直だし、親にほめられたい、認められたいから親の意向についつい従ってしまう。でも。

思春期になると、親の手のひらの上で踊りたくなくなる。自分の意志で動きたい、という気持ちが強くなってくる。親の期待通り、親が先回りして準備した道に進むことが嫌になり、反発し、なんとか別の道を探ろうとする。それは子どもが自立しようという心理でもあり、成長のあかしでもある。

問題は、自分の将来に役立ちそうな道に、すでに親が先回りして立ちはだかり、待ち受けていること。親に反発すると、自分の将来を台無しにする道しか残されていない、という袋小路に追い込まれる。親が先回りしてさえいなければ、その道に自ら飛び込めたかもしれないのに、嫌気がさしてしまう。

私は楽器を一つもできないので、クラリネットをやってみようかな、と思って口を滑らせたら、次に会った時に父がクラリネットをどこかから手に入れて自分でもやろうとしていて、私はゲンナリして手に入れたクラリネットを他人に上げてしまったことがある。当時、私は父に反発していた。

親が先回りすることはすべてやりたくなくなる。もともと自分が興味を持って、やろうという気になっていたものも、親がやる気を出し、準備を始めた途端、イヤになる。特に思春期の子どもはそうなりやすい。親の敷いたレールにだけは断固乗りたくない、となるのが、反抗期の子ども。

私は、親は先回りするのではなく、「後回り」したほうがよいと考えている。子どもが始めるまで、親が先回りしない。口も出さない。そして子どもが能動的に何かを始めた時、それに驚き、喜んだり面白がったりすればよいのだと思う。なにせ能動性は、本人にしか発生させられない「奇跡」なのだから。

私は、赤ん坊に対する親の接し方が、教育(私はあまりこの言葉が好きではないが)の理想の姿だと考えている。赤ん坊は言葉が通じないから教えようがない。子どもは自ら工夫して、立つことや言葉を話すことをマスターしなければならない。親にできることは、健やかな成長を「祈る」ことだけ。

すると、赤ちゃんはどうしたわけか能動的にハイハイをし、喃語を話し、どんどん能力を獲得していく。そしてついに立ったり、言葉を話したりする。親ができることは、その成長のたびに驚き、喜ぶことだけ。でも、それが最高の指導のあり方なのだと思う。

子どもが何をするのかも子ども任せ。子どもが何に能動的になるのかも子ども任せ。子どもがいつ成長するかも子ども任せ。子どもが自らのペースで能動的になり、成長していくのを、親はただ「待つ」「任せる」そして「祈る」ことしかできない。でも、それこそが理想の姿なのだと思う。なぜなら。

子どもは自ら選びたいのだから。自ら苦心惨憺して解決方法を工夫し、課題を打開したいのだから。そして課題を打開した時に、自分自身驚くとともに、そのそばで親が驚き、喜んでくれることを何より嬉しく思うのだから。親を驚かすことができた、それが次なる工夫、挑戦、発見のエネルギーになる。

幼児は「ねえ、見て見て」というのが口癖。昨日までできなかったこと、知らなかったことを、「できる」「知る」に変えることができた時、自分でも驚き、そして何より、自分のそうした成長で親を驚かしたいと考えているから、それを口癖にするのだろう。そして親を目論見通り驚かすことができたら、

次なる挑戦へと子どもは勝手に向かっていく。親は、赤ちゃんから幼児までの接し方を、生涯続けた方がよいように思う。子どもが何をするのか、先回りして世話しようとせず、子どもに「任せる、委ねる」。そして「待つ」。その間、子どもの健やかな成長を「祈る」。すると子どもは必ず動き出す。

何で動き出すかはわからない。けれど、ともかく何かしら能動的になって動き出す。その結果を見て子どもは「今の見た?ねえ、見て見て!」となる。そのとき親は、昨日までの子どもと違う「差分」に気づき、その差分を生み出した子どもの能動性の発生に驚き、面白がればよいのだと思う。

子どもが動き出すまで「待つ」、子どもが何に能動的になるかを「任せる・委ねる」、そして子どもが健やかな成長をするようにと「祈る」、子どもが「見て!」と言ってきたら、昨日と今日の成長の「差分に気づく」、そしてそれを生み出した能動性の発生という奇跡に「驚き、面白がる」。

すると、子どもは様々なことに興味を持ち、能力を伸ばしていく。学校の勉強は、その「ついで」にできてしまうものだと私は考えている。親が先回りさえしなければ、子どもは学校で習うことさえ「遊び」気分でこなしてしまう。親はそれに驚き、面白がっていればよいのだと思う。

子どもは親を驚かすのが大好きなのだから。親を驚かすのが楽しいから、能動性が強まり、新たなる挑戦をするエネルギーとなる。親が驚いてくれるかどうかは、子どもの能動性に深くかかわる。私は、多くの子どもが小学校入学と共に学習意欲を失う理由が、「驚かなくなる」ことだと考えている。

小学校に入った途端、多くの親が成績を気にするようになり、「勉強はしなくていいの?」「宿題はしなくていいの?」と先回りするようになる。で、勉強したり宿題したりしても、親はそれを当然のような顔をして、驚いてくれなくなる。子どもはつまらない。だから勉強しなくなるのだと思う。

私は、「子どもが勉強する方がおかしい」と考えることにしている。すると不思議なもので、子どもは親のそうした意識を感じて裏をかこうとし、自主的に学んだり宿題を済ませたりして私を驚かそうとする。私は「親が何も言わんのに、よく自発的にやるよなあ!」と、毎日驚いている。

すると子どもは「そんなのあたりまえだよ」なんて顔をする。どこかしら得意げな顔をして。息子(小6)は昨日終業式だったけれど、冬休み宿題をその日のうちに全部やり終えた。私は「なんでそんなに頑張るねん」と驚いた。息子はなんでもないことなのに何を驚く、という顔をしながら、どこか得意げ。

先回りしなければ、むしろ「後回り」して子どもが能動的に動くことに驚いていれば、子どもはどんどん能動的になっていく。もちろん、何で能動的になるかはコントロールできない。ゲームに能動的になるかもしれないし、マンガやテレビに能動的になるかもしれない。そこはコントロールできない。でも。

子どもが能動的になった時のバイタリティは、マンガもテレビもゲームも楽しんだうえで、学校の学習内容も本を読むことも知識を仕入れることもスポーツで汗をかくことも家事を手伝うことも、何もかもをこなすという形で現れる。親はそれに驚嘆し、面白がっていればよいのだと思う。

私は近頃、家でも職場でも「驚き屋」になることを心がけている。私は職場のスタッフや学生にも、あるいは家庭で妻や子どもにも一切期待しない。するとどうしたわけか、みんな能動的に動く。私はなぜ能動的に動き出したのだろうと不思議に思い、驚く。するとみんなどんどん能動的になる。

不思議だなあ、と思う。本当にみんな、能動的に動くから。私はただ驚き、その不思議な現象を面白がり、そして感謝するだけ。すると、皆が能動的に動き出し、すべてを解決してくれる。何とありがたいことか。まさに「有り難い」だと思う。

子どもを粘土細工のように、自分の思い通りに加工しようという目論見は、捨ててしまったほうがよいように思う。それはパトラッシュの最初の主人のようになってしまう。それよりはネロのように期待せず、相手が能動的に動き出したときに驚き、面白がればよいのだと思う。

相手が能動的になった時に驚くコツ、それは、相手が何に能動的になるのかをコントロールしようとせず、「任せ、委ねる」こと。相手が動き出すまで急かしたりほのめかしたりせず、「待つ」こと。待つ間、せいぜい「祈る」くらいにして先回りしないこと。こうした姿勢を貫いておくと、

相手が能動的になるかどうかは、まったく相手次第だということが自分でも痛感される。だから、相手が能動的になることはまったく「奇跡」だとしか思えなくなる。そうしたマインドセットになっているから、相手が能動的に動き出したとき、「驚く」ことになるし、面白いなあ、と思えるようになる。

で、面白いことに、こちらが驚き、面白がっていると、相手はますます能動的になる。こちらをさらに驚かそうとして。
ここで、何に驚くかが結構重要。私は、工夫、挑戦、発見に驚くようにしている。勉強の成績とか、何か成果を出したとかの外面的なことでは驚かないことにしている。

成績とか成果とかは結果でしかなく、すでに過去のもの。社会的地位とか名誉とかもそう。それらに驚くと、相手は「過去の栄光」にしがみつき、新たな挑戦をしようとしなくなる。新たな挑戦をして失敗したら、過去の栄光を失うかもと恐れてしまうようになるかららしい。

だから私は、工夫や挑戦、発見に特に敏感に驚くようにしている。それはどんな分野のものでもよい。ともかく何かしら新たな工夫を重ねて課題を克服しようとしている様子に驚き、挑戦をやめない様子に驚き、何か新しい発見をしたら驚く。すると、子どもは工夫、挑戦、発見をやめようとしなくなる。

工夫、挑戦、発見を常に試みている子どもは、自然と能力が高まる。工夫しようとすれば、物事をよく観察するようになる。観察から得た情報は、新たな発見にもつながり、いろんな分野にも応用が利く。すると、新たな分野で挑戦すべき課題が浮かび上がり、さらに能動的になる。

工夫、挑戦、発見をすると親を驚かすことができる、と分かると、子どもはそれらをやめなくなる。すると、これらは能動性にさらにドライブをかけるし、この過程のついでに様々なことを学習してしまう。学校の学習内容はついでに終わらせてしまう勢いで。

以上をまとめると、
・子どもが何をするか「任せ、委ねる」。
・子どもが動き出すのを「待つ」。
・子どもの健やかな成長を「祈る」。
・子どもの工夫、挑戦、発見などの「差分」に気づき、驚き、面白がる。
これを心がけると、子どもは勝手に能動的になり、学習も行きがけの駄賃で済ませてしまうように思う。

私はこのスタイルを職場でもやっていて、年齢に関係なしに有効だと考えている。もっともっと、こうした方法の有効性をみなさんに知っていただきたいと考えている。そうすると、何より子どもたちが楽しそうだから。そして親も楽しくてならないから。

いいなと思ったら応援しよう!