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【創作大賞:ホラー】短編集 ⑥「私のそばにいつもいる」

あらすじ

 高校生の奈津美はある日、誰もいない通学路で人の気配を感じるようになった。やがて気配だけではなく、実際に奈津美の命を危険に晒し始める。その都度浮かび上がる表情に奈津美は見覚えがあった。それは数年前に亡くなったはずの双子の姉だった。

(10,210文字:17〜25分)

奈津美 ≠ 葉月

「それ、絶対ストーカーでしょ。あんたやられるよ」

 やられる、の具体的な意味は明かさずに、本城(ほんじょう)司(つかさ)は言い切った。

「そうかな……」
「そうだよ、通学路で毎日のように誰かにつけられてて、しかも振り返っても誰もいないって。それストーカーしかないでしょ、隣の花見川高校(はなこう)では行方不明になった女子高生もいるくらい最近物騒なんだよ」

 司の浅黒く焼けた頬。部活はバスケ部なのにどこであんなに焼けたんだろう、と関係のないことを水瀬(みなせ)奈津美(なつみ)は考えていた。そんな奈津美にお構いなく司は細い目をさらに細くして顔を近づけた。

「それに最近は良いアプリがあってさ、それを……」

 唾を飛ばしそうなくらい一生懸命話し続ける司の細い目尻。その向こう側に浮かぶのは雲ひとつない、まるで大きな青のキャンバスだった。太陽がぎらぎらとこちらを睨んでいる。

「ちょっと、ナツ。聞いてる?」
「あはは、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

 ナツこと水瀬奈津美と本城司、二人は県立緑高校の一年生だった。中学の時から仲が良かった二人は昼になると決まって渡り廊下で昼食を食べることになっていた。渡り廊下と言っても、三十メートルほどある長い廊下でしかも最上階である四階同士を繋げているため、屋根が無く、まるで屋上のように校内を見下ろせる場所だった。

「怖くないの? ナツ可愛いから心配」

 そう言いながら司は奈津美の髪に手を当てた。根元を蝶の髪飾りがついたゴムで結び、そのまま重力にしたがって肩までストンと落ちる黒髪。司がさらりと撫でると、その艶のある濡れ羽色は太陽を反射してきらりと光った。

「この蝶の髪留め、確かお姉さんの形見だっけ」
「そうそう、よく覚えてたね」

 奈津美には姉がいた。二卵性双生児の姉で五歳までは元気だった。しかし白血病と診断され、結局骨髄移植までしたが助からなかった。もう十年も前の話である。

「お姉さんか、あたし生まれてからずっと下の子の面倒ばかり。甘えさせてくれるイケメンお兄さん、欲しかったなぁ」

 司が最後のソーセージを口で咀嚼していると、突然背中を叩く者がいた。振り返るとバスケ部の友人だった。

「司、何してんの? 部活会議もう始まってるよ」
「げ、うっそ。今日だっけ? ナツごめん、あたし行くわ」

 そう言ってお弁当箱を片付ける司に、奈津美は小さく手を振った。去り際に司が奈津美の耳元で囁いた。

「暗い夜道とか絶対一人で歩かないでね。何かあったら大声出すんだよ」

 そう言い残して司は校内への階段を下りた。

 一人残された奈津美はすっくと立ち上がると、渡り廊下の柵にもたれかかった。くっきりしたまつ毛の瞳が遠くに霞む山々を見つめた。すっかり冷たくなった冬の風が奈津美の前髪を揺らす。

「ストーカーなんかじゃないよ。私には分かってる」

 奈津美に吹き付けた風がいつの間にか鋭さを含み、冷たく刺さり始めた。

「あなたはまだ私を許していないんだよね」

 水瀬 葉月(はづき)は奈津美の双子の姉の名前だ。亡くなったのが六歳とはいえ、一緒に遊んだ記憶くらいは奈津美にもある。ただ葉月の病気が発覚してからは、奈津美の家庭環境が激変した。まず母が葉月の付き添いのため家に帰って来なくなった。たまに帰ってきては父とよく喧嘩をするようになり、気づけば父は家を出て行った。奈津美は祖母に預けられ、ほとんど母と一緒に過ごす事はできなかった。その期間は今思い出しても辛い記憶として刻まれている。

 葉月の葬式の時、奈津美は涙が出なかった。これで嫌なことが終わる、やっと母さんが家に戻ってきてくれる、その嬉しさのほうが勝った。でも時は経ち、奈津美は知った。苦しい治療を受けながら死んでいった姉の人生、それがどれだけ無念で不憫だったかを。ほんの一瞬でも姉の死を喜んでいた自分がいると思うと、奈津美は自分の心をめちゃくちゃに踏み潰したい気持ちになった。

 ここ数日、奈津美は通学路で違和感を覚えるようになった。誰かにつけられている気がするのだ。気になって振り返っても誰もいない、しかしなぜか脳裏にはとある表情が焼き付けられる。それは白い顔面にまん丸な瞳でこっちをギッと睨んでいる、そんな残像。それはまさしく奈津美の記憶の中の姉、葉月の表情だった。

 奈津美はわかっていた、葉月は自分を恨んでいるんだと。死を喜んでいたこと、自分だけ何事もなく過ごせていること。

 信じたくはない、でもやっぱり葉月は自分を許していない。

奈津美 ← 葉月

 その日のアルバイトは引き継ぎ相手が大幅に遅刻したため、奈津美は帰りが遅くなった。すっかり日は落ち、人気の少ないガードレールの無い歩道に差し掛かった時だった。
 やはりいる——時々感じる何者かの予感。一度立ち止まってみた、するとその気配も一緒に消える。何度振り返っても誰もいない。そのままゆっくりと前へ目をやると、

「あ」

 目の前に突如あの顔が浮かび上がった。それに驚く間も無く、どん、という衝撃と共に奈津美は車道に突き飛ばされた。奈津美の体と持っていたカバンの中身が車道に散らばった。ちょうどその時、まるで刺すような眩しいライトが奈津美を照らした。下り坂を急スピードで接近するワゴン車。その鉄の塊は奈津美の体をぐちゃぐちゃにするには十分すぎるほどのエネルギーを持って近づいてきていた。

——轢かれる、間に合わない……

 奈津美は力強く目を閉じた。
 凄まじいブレーキ音と、スリップするタイヤ。ワゴン車は奈津美の目と鼻の先で辛うじて止まった。

「危ねえだろ! どこ見て歩いてんだ」

 クラクションを大音量でブー、と鳴らしてからワゴンは去って行った。
 呆然とする奈津美。一歩間違えれば自分は死んでいたかもしれない、そう思うとしばらくその場を動けなかった。やがて我に帰り歩道を見上げた。すると、

「……」

 そこに立つのは一人の少女。
 色白の顔に、まん丸の瞳。じっと見下ろすその表情に生気は感じられなかった。怒りに満ちたその視線が奈津美を刺していた。
(あなたが、押したの?)
 心の中で問いかけると、その少女は、ふわっと消えた。鋭い、込み上げる憎しみの表情をにじませたまま。
 奈津美は散らばったプリントと筆箱をカバンに入れ、折れ曲がったスカートを整えた。
「……」
 奈津美は頭に手を当て、髪を束ねていた蝶の髪留めを外した。さらり、と音がしそうな滑らかな黒髪が夜の闇に舞った。手のひらには生前葉月がつけていた蝶の髪留め、それを見て奈津美は一つため息をついた。

 次の日の昼休み、いつもの渡り廊下で奈津美は司は昼食を摂っていた。
「それめっちゃ怖いじゃん。お姉ちゃんの幽霊ってこと?」
 司は壁によりかかり、足を投げ出していた。スリムな長脚は筋肉質で無駄な肉がついていない。
「うん、多分」
 奈津美は足を折り曲げ、ぴょこんと座りながら、弁当箱を小さくつついた。
「前から感じることはあった。でも直接何かされるのは初めてかも」
 司はじっと奈津美の鼻筋が通った整った顔立ちを見つめ、奈津美が口を開くのを待った。
「私、お姉ちゃんのお見舞いに何回か行ったことがあるの。最初はね、まだわがままとか言う元気があった。でも次第に体調が悪くなると面会すらできなくなって。最後の方は本当に苦しそうだった、抗がん剤で髪も抜けちゃって、顔もげっそりしてた。結局何も楽しいこと経験できずに死んじゃったんだな、って……そんなこと考えてると、なんか自分だけ生きているのが申し訳なくなってくる」
 司は両手を頭の後ろに組んで、柵にもたれかかっていた。そして上唇と鼻で箸を挟みながらその話を聞いていた。赤茶色のロングヘアが後少しで腰まで届きそうだった。
「へえ、でもそのお姉さんの霊。何かを伝えたいんじゃないの?」
「伝えたい?」
「そう、霊ってそういうもんでしょ。何か未練とか怨念とか、そういうのがあるから成仏出来ないんじゃないの?」
 確かに司の言うのももっともだった。しかし奈津美には心当たりはなかった。あの憎しみに満ちた表情が伝えたいこと——それは自分に対する嫉妬以外考えられなかった。
「まあよくわかんないけどどっちにしろその霊、なんとかした方がいいと思う。お祓いしてみる? 私良い除霊師さん知ってるよ」
 司が口角を少し上げたタイミングで、挟んでいた箸が地面に落ちた。


 日曜の午後5時、奈津美は花見ヶ丘駅前に立っていた。
「ナツ、お待たせ」
 司が二段とばしで階段を下りてきた。白いTシャツにダメージのあるジーンズ。黒いキャップには「venum」と書いてあった。
「ごめんね、部活だったのに」
「早退してきた。ってかこっちの方が大事でしょ、行こ」
 そう言いながら、足早に司は歩きだした。
「それにしても司の交友関係って、広いよね。霊まで詳しいなんて」
「除霊屋のこと? あたし中学の時オカルト研究会入ってたでしょ、その時のつて。大丈夫、そこの除霊師さんちょっと変わってるけど、腕は良いから。失敗しているところ見たことないし」
 成功とか失敗とかあるんだろうか、と疑問を抱きつつも奈津美はハンドバッグの中の封筒を確認した。藁にもすがる思いで貯金していたアルバイトのお金を奈津美はおろしてきたのだ。
 駅前から少し離れた車の入れない路地を進むと、二人は古びたビルの前に着いた。その一階のテナントに目的の除霊屋はあった。
 奈津美が見上げると、確かに看板は「除霊屋」と書いてある。入り口の横に、「除霊始めました」と書いたビラが剥がれかけて揺れているのが気になったが。

 自動ドアを抜けると、「らっしゃい!」という除霊とは縁遠そうな威勢の良い声が聞こえてきた。

奈津美 ← ? ← 葉月

 迎えたのは頭が薄くなり始めた中年の男性だった。受付の女性は軽く会釈をするだけで、愛想笑いすら浮かべなかった。司が「予約していた本城ですけど……」と最後まで言い切る前に、中年男性がずかずかとしゃしゃりでた。
「お待ちしてましたよ、さあそこへ」
 そう言うと男はソファを指さした。言われるがままに二人がソファに腰かけると、それに合わせて中年男性も対面する形で深く腰をかけた。
「何がいい? グアバ茶? ジュース? コーヒーもあるよ」
「じゃあお茶二つ。いい?」
 司が奈津美をリードした。とりあえずうなずく奈津美。
「はーい、ミキちゃん、お茶二つ持ってきて」
 先ほど受付にいた女性は、無言のまま立ち上がると、奥の部屋へ消えた。

 奈津美が辺りを見回すと、そこは至って普通の事務所だった。ただ明らかに違うのは、壁にかけられたメニューだった。
 おためし除霊コース、永久除霊コース、オプションアロマ除霊など、まるでラーメン屋のメニューのように除霊のメニューがずらりと並んでいた。
「はじめまして、除霊師の加藤です」
 そう言って加藤は名刺を机の上にポン、と置くとすうっと二人の前に進めた。
「二人とも、除霊は初めて?」
「私は何回か。ナツは初めてだよね?」
 奈津美はこくりと頭を垂れた。
「あそう、じゃあ物珍しいかもね」
 ひっひっひっ、と引きつるような笑い声を上げると、加藤の奥歯の詰め物が光った。
 この人大丈夫なんだろうか、それが奈津美の率直な感想だった。服装ももう冬になろうとしているのにアロハシャツだし、かなりラフ。除霊ってもう少し厳かな印象だと思っていた奈津美は拍子抜けしていた。
「加藤さん、この子なんだけど……」
 そう話し始めた司を加藤は手で制した。
「いや、聞かなくても分かるから大丈夫」
 そう言ってから、加藤は奈津美を舐めるように上から下まで見回した。ミニスカートだった脚を閉じる力が少し強くなった。
「きれいな脚だね」
「もう、そんなんじゃなくて」
「いや、君の姉さん。妹、かな? どっち? ひょっとして双子?」
 一瞬その場の空気が凍った。まだ双子の話はしていない。
「姉です」
 奈津美の言葉に加藤は、へえ、という表情を浮かべながら数回小さくうなずいた。
「憑いてますよ、お姉さん、ちゃんとね。でもいいの? 本当に除霊しちゃって。まあやれと言われればやりますよ、何せうちは除霊屋ですから」
 司が立ち上がって身を乗り出した。
「やるに決まってるでしょ? この子かなり危ない目に遭ってるんだから、大体……」
 加藤は司の話を聞くのが面倒になったのか、ハイハイという手振りを見せた。
「分かったよ、ちゃんとやるから。ミキちゃん、除霊セット持ってきて」
 と加藤は奥の部屋に向かって声を張り上げた。

 除霊屋の帰り道、奈津美は司と花見ヶ丘駅に向かって歩いていた。もう辺りはすっかり夜の帳が下りていて、見上げた外灯の一つがちかちかしていた。
「私、除霊ってもっと厳かな感じかと思ってた」
 奈津美が拍子抜けるのも無理は無い。加藤はアロハシャツのまま、御祓いのときに使う白い紙のついた棒を持って、さっさっと振ったり、念じたり、ものの十分程度で終わってしまったからだ。
「最初は私も驚いたけどね、こんなんで効くのかなって。ただ、オカルト研究会の先輩も除霊してもらったんだけど、効果あったみたい」
「へえ、どんな?」
「なんかね、生まれてから一回も彼女ができなかったのに、その一週間後にできたんだって。すごくない?」
 奈津美は何かを言いかけて、その口をつぐんだ。駅前の交差点で司は立ち止まった。
「じゃあね、ナツ。あたし、ちょっとハンズで付箋買ってくから。気をつけてね」
 奈津美は司と別れ、花見ヶ丘駅から電車に乗った。

 最寄駅に着く頃には、いよいよ人通りが少なくなっていた。
 駅から奈津美の家までは人通りが少ない道が続く。大通りから一本入っただけで外灯は少なくなり、一気に心細くなった。しかし除霊のおかげか、今までの誰かにつけられているという感覚は無くなった。どうやら除霊は成功したようだ。

(これでよかったんだよね)

 念じながらも、奈津美はもやっとしたような、何かとても大事なことを忘れているような、そんな違和感が頭をかすめた。その時だった、突然何者かが奈津美の口を後ろから封じた。声を出そうにも布のようなもので口を押さえられ、もごもごしか言えない。
(何か、変なにおいが)
 奈津美が何かを喋ろうとすればするほど、全身の力が抜けてゆく。やがて、手足の感覚がなくなり、そのまま自分が消えていってしまうような感覚に陥った。
(だめ……このままじゃ)
 そのまま奈津美の意識は遥か彼方へ飛んで行った。

 次に目が覚めた時、まず訪れたのはツーンという鼻を突くようなかび臭い匂いだった。聞いたことのない英語のハードロックが大音量で聞こえてくる。
(ここは……どこ?)
 奈津美がやっとのことで目を開けると、そこは見覚えのない部屋だった。
「おはよう、なつみ」
 ぼんやりと見えてきたのは、小太りの男。メガネをかけている。白いTシャツに、息をはあはあ言わせている。
「あなた……誰?」
 奈津美が部屋を見渡すと、薄暗い部屋の至る所に何やら写真が貼り付けられていた。全て女子高校生の写真で、電車の中だったり、バスを待っていたり、どれをとってもこちらを向いていない。奥にはテレビが見えた。そこでは動画が流れていた。
「あれは……」
 動画の風景は見覚えのあるものだった。奈津美が毎日通っている駅のホーム、そこに奈津美が立っている動画を、おそらく望遠レンズで撮影したものだった。一つ動画が終わると、他の日、そしてまた別の日と、奈津美が電車に乗るまでじっと撮影されていた。
「やっと一緒になれたね、ここで一緒に暮らそう」
 そう言いながら男は額から汗を垂らし、餌をお預けされた犬のようにはあはあ、息を荒くしていた。
 奈津美は上半身だけを起こしたまま、後ろに手をついて後退りをした。手にざらっとした感触があったが、辺りが暗くてそれが何なのかわからなかった。
「——いや、帰らせて」
 大音量のハードロックの中、かろうじてその声は男に届いたようだった。一瞬にして、にやけていた顔が冷たくなった。
「なんで……なんで帰るんだよ。せっかく来たのに」
 男の眼鏡の奥が鋭く、冷たくなった。
「何度も君を連れてこようとしたんだよ、でもその度に逃げられて。この前なんか突然道路に飛び出すし」
 奈津美は、はっとした。つけられていたような気がしたのは、この男だったのだ。逃げなきゃ、本能がそう叫び声をあげようとしたその時、奈津美の首元に男の腕が押しつけられた。苦しい、の前に痛みとそのまま喉が潰れてしまいそうな感覚に陥った。
「悪い子だ。君もお人形にしてあげようか、そうすればそんなことは言わなくなる」
 あっ……あ……という声にならない音が口から漏れた。そのまま男の全体重が奈津美の首元に一気にかけられていく。顔面に血が上り始め、苦しさと痛みが喉元を中心に破裂する。間違いなくこのまま首の骨が折れてしまう力だった。そのまま徐々に奈津美の意識がまるで世界がモザイクにかかったかのように朦朧とし始めていたその時。

 ドンドン、ドンドン。
 激しく戸を叩く音が聞こえた。それは大音量のハードロックにも負けないくらい、強く、激しく、そして乱暴な音だった。
 男は最初は無視していたが、その後もドンドン、ドンドンと激しく叩かれたため、チッと舌打ちしてから、玄関に向かった。そして戸が開くと同時に、一人の女性が戸の隙間から入ってきた。
「あの、ここの女の子いませんか? ポニーテールの高一なんですけど」
 奈津美はその聞き覚えのある声を遠くに聞いた。
(司? ここ……気付いて……)
 声を出そうにもまるで火傷をしたようにひりひりする喉はまったく機能せず、恐怖と相まって大音量のハードロックの音の海に埋もれてしまった。
「いませんけど、じゃ」
 そう言って男は扉をバタンと閉めた。
 それから戻ろうとすると、
 ドンドン、ドンドン、ねえ、いるんでしょ? ちょっと中見せてよ?
 としつこく食い下がる司に、男は再び戸を開けた。そして来客と対面し、
「うるせーな、ぶっ殺すぞ……」
 と言いかけた次の瞬間、男の股間に電撃が走った。
「んぐっ」
 司の鍛え抜かれた下腿が男の股間を蹴り上げていた。動けなくなった男は、目を丸くすると、その場にうずくまった。
「失礼します」
 そう言いながら、靴のまま、汚いゴミの散らばった部屋に入り込んだ。そしてふすまを開けると、壁にもたれかかって血の気が失せた奈津美を見つけた。
「ナツ! 大丈夫?」
 すぐさま駆けつけると、奈津美を抱きしめた。
「司……良かった」
「心配したよ、ほんとに」
 夢中で抱き合う二人の後ろから、ゆっくりと一つの影が近づいていた。さっき倒れていた男が、手に鉄アレイを持ち司の背後に近づいていた。そしてその鉄の塊を大きく振り上げた。目は血走って、怒りに我を忘れた猛獣のようだった。
「司、後ろ!」
「うわぁぁぁぁ!」
 司はそれをさっと避けると、振り向き様に後ろ回し蹴りを放った。その脚が男の首を真横からなぎ倒し、バシっとそのまま90度曲がった。よろめいた巨体のど真ん中にダメ押しのソバットをくりだした。そのまま大きな体は、ドンドンと床を鳴らしながら、よろめいた。
 机、床に散らばったゴミや、食べかすを巻き込みながら、ふすまにぶつかり、そのままふすまごと男は倒れた。軽く息をあがらせながら立ちはだかる司。その背後に奈津美はつかまった。
「ナツ、逃げるよ」
 奈津美はうなずくと、そのまま戸を抜けた。

 その後、警察に電話し、ただちに男は捕まった。奈津美と司は事情聴取のため、警察署までパトロールカーで送られることになった。発車を待つ後部座席で、奈津美は司の手をぎゅっと握りしめていた。先ほどのことを少し思い出そうとするだけで、鳥肌が立った。
「良かった、司が来てくれて」
「ほんと、危ないところだったわ」
 パトロールカーの窓から、数人の警察官がアパートの周りで何やら調査をしているのが見えた。
「お姉ちゃん、私を恨んでたんじゃなくて——守ろうとしてた」
 奈津美はこくりと頭を垂れた。
「ナツのお姉さんは、ナツが危ないよって教えてくれてたんだね」
 司は奈津美の肩をぎゅっと抱きしめた。先程の恐怖でまだ震えていた、鼻を啜る音が時折混じった。
「ねえ司。どうして私があそこにいるって分かった?」
「ドコイル使ったから」
「ドコイル?」
「この前の昼話したじゃん。物騒だからこのアプリ起動しといてって」
 ドコイルは対象者が今どこにいるかGPSを使って教えてくれるサービスだ。奈津美のスマホにインストールされていたこのアプリから、司は居場所を掴むことができた。
「そっか……」
「もう、ほんっとナツはいっつもこうなんだから」
「ごめん」
 そう言ってうつむく奈津美の頭を、司はぽかり、と軽く叩いた、そして優しく微笑んだ。
「でもそれだけじゃないよ。今考えても不思議なんだけど」
 そう言いながら司は頭を掻き、考えを逡巡し始めた。
「私がハンズから出ようとしたら、何もしてないのに突然ドコイルが起動したの。今までそんなこと一度もなかったのに。そんで気になって見てみたら、ナツが変なとこにいて。電話かけたんだけど全く出ないからさ、心配になって来ちゃった」
 パトロールカーがゆっくり動き出した。辺りはもうすっかり暗い静寂で満たされている。
「でも下手したら司も一緒にやられてたかも」
「やられてたか。でも今回は相手が悪かったかな」
 そう言って司は小さく舌を出して見せた。司の家はキックボクシングジムを経営していて、父はその指導者だった。小さい頃から意図せず司は鍛えられていたのみならず、数々の技を覚えさせられていたのだった。
「女子がキックボクシングなんて流行んないよな、なんて思ってたけどたまには役立つね」
「あの時の司、めっちゃカッコ良かった」
「ありがと。でもこんなんだから男が寄ってこないんだよね。ってゆうかむしろ女子から告白されたことあるし」
 しおれかけていた奈津美の心が徐々に潤いを取り戻していく。こんな奈津美を少しでも笑わせること出来るのは、世界中でも司一人だっただろう。
 突如奈津美のスマホが震えた。除霊師の加藤からだった。奈津美は出ていいですか? と確認してからスマホに出た。
『あ、もしもし? 水瀬さん? すんませんね、突然。あの除霊のことなんだけど、謝んなきゃいけないことがあって』
「謝る?」
『そう。除霊の最後君の姉さんに逃げられてね。なんか最後に一回だけお願い、って言ってそのまま行っちゃったんだよ。だから、除霊料は一部返金するから、今度またうち来てくれないかな? 何か変なこと起こらなかった?』
 会話は司も聞いていた。それを聞いて二人は目を合わせた。そして司がスマホに顔を近づけた。
「加藤さん。起きたよ、私の方に変なこと、スマホが勝手に起動した」
『あれ? 本城さん? 一緒にいたの? ごめんねうまくいかなくて……それお姉さんの仕業かも』
「あの……」
 奈津美は聞いておかなければならないことがあった。
「お姉ちゃん……お姉ちゃんは今どこにいるんですか?」
 加藤は一時黙っていた。予想しなかった質問に戸惑っている様子だった。
『お姉さん? そりゃ除霊したから、もうこの世にはいないよ。天国にでもいったかな』
 わかりました、と力なく奈津美は答えた。
 その後、男は以前の女子高校生行方不明事件と関連があることも後々わかった。その女子高校生の遺体が後日山中から発見された。

奈津美と葉月

 昼休み。渡り廊下で昼食を食べていた司は、突然頭を掻き始めた。
「あぁ、もう。ほんっとにムカツク!」
 それをみて笑いをこらえる奈津美。
「司、まだ気にしてんの?」
「そりゃそうよ。あたしが除霊とか言わなかったら、お姉さんはまだいてくれたんだよ?」
 そう言って赤茶色の髪の毛をぼさぼさにする司を、奈津美はまるで回し車を走り続けるハムスターを見るように眺めた。
 奈津美はすっくと立ち上がると、折れ曲がったスカートを正した。そして柵にもたれかかると、遠くの山々を見つめた。
「お姉ちゃん、怖い顔してた。もちろん、私を守るために必死だったからかもしれない。でもあの顔は私に向けてたんじゃないかな、って今は思うの」
「ナツに? なんで?」
「その——もっとしっかりしなさい、って」
 司はしばらくぽかんと口を開けていたが、しばらくして、がははは、と笑い出した。
「ウケる、それ。ちなみに私もそう思いまーす」
 とおどけて手を挙げる司の頭を、奈津美は肘でつついた。
「だからね、私お姉ちゃんが心配しなくてもいいようにしっかりしなきゃって思うようになった。お姉ちゃんの分までしっかり生きようって。そうすれば安心して天国で過ごせると思うの」
 司が奈津美の横に並ぶと、その細い目尻で奈津美の真剣な眼差しを見つめた。それから遠くの空を一緒に眺めた。その広大な青の中に、二人にしか見えない光を見つめるように。
「ナツの姉さん、いつも近くで見守ってくれてたんだね、でももういなくなっちゃった」
 山の麓で小さい新幹線が通り過ぎるのが見えた。
「いなくなってなんかないよ」
 優しい風が二人を包んだ。奈津美の前髪がふわりと風で揺れた。

「——私の中にずっと、お姉ちゃんは私のそばにいつもいる」

(おわり)

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