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苦悩とは何か?

最近考えている事。長いです。

2年前に、僧侶の研修で法話をした時に、法話の先生から次のように言われた。

「君の法話では人間の迷いということは書かれているが、苦悩について述べられていない。迷いによって苦しむのが私達です。迷いによって苦しむとはどういうことか?苦しむとはどういうことかの説明が抜けているように思う。そこを考えなさい」こう言われた。

親鸞の和讃に次のようなものがある。

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり『正像末和讃』(親鸞)
(現代語訳)なぜ阿弥陀さまが苦悩の私を救おうと願いをたててくださったのかと尋ねれば、迷いに悩み苦しみ悲しんで不安の中にある私を捨てることはできないと、ただ私に仏の功徳を与えることを第一に考えて、南無阿弥陀仏という六字のお名号で私の苦悩を解き放つという大きな慈悲を完成されたのだ

この和讃についての法話をしたのだが、悩むということについての考察がないと言われた。

そこで、最近この「悩む」とは何かと考えている。

仏教でいう迷いとは「無知」(愚痴)のことである。つまり真実がわからないこと自体が迷いであるということだと説示されている。(※1)

しかし、悩むということはなんなのだろうか?

聖典を紐解くべきなのだが、その前に、自分で一度考えてみたい。

そこで、感じたのが、自分は迷ってはいる。何が正しいのか全然わからずに、どうでもいい物を欲しがり、執着している。全く生きる方向性が分かっていない。このこと全体が迷いであろう。では、私は悩んでいるのか…というと、最近自分は全然悩んでないのではないかと思うのだ。

迷っている事を屁でもないと思っている自分がいる。「こんなもんやろ」とどこかで思っている。そのことが大きな問題なのではないだろうか?


悩むとはどういうことなのだろうか。経典では苦悩という言葉が度々出てくる。(※2)悩むと苦しむが同じ意味としてひとまとまりにされている。辞書を見ると悩むには「苦痛をおぼえる。わずらう。精神的な苦痛・負担を感ずる。」(Oxford Languages)という意味で書かれており、悩むと苦しむは同じ意味と考えることができるだろう。

ちなみに「苦悩」の意味をひいてみると「精神的な苦しさに、もだえ悩むこと。その苦しみ。」(Oxford Languages)と書かれてある。苦悩は「精神的な苦しさ」であるという事に注目される。

宮下晴輝先生の『はじめての仏教学ーゴータマが仏陀になった』を読んでいたら次のような文言があった。

苦しみとは、何も喜びがない、何も信じられないと苦しむことでした。(p .69)

そうか、何も喜びがないという感覚が訪れると人は苦しみ悩むのだと思った。何も信じられないことが苦しみなのだなと。

自分が、今まで生きてきて苦しかったことを思い出すと、好きだった人ともう会えなくて、虚しく感じた事を思い出した。また、以前の職場で、全然自分の時間を取れずに、ロボットのように働いていたとき、とても苦しかった。これは仕事の中に、ひいては自分の生活の中に「喜びを感じられなかった」からだろう。この生に意味があるなどとは「信じられなかった」からではなかったか。つまり、人は、自分の人生に意味を見出すことができなかったり、喜びがなかったり、信じるものがなかったりするときに苦しむのだ。

これは、苦しいという漢字に囚われるから肉体的痛みをどうしても老い浮かべてしまうが、「虚しい」とほぼ同義ではないだろうか?

苦しい≒虚しい

虚しくなければ辛いことでも、苦しくないということがある。例えば教師をやっていたときも、大変な仕事でも、そのことで生徒たちが喜んでくれたり、生徒の教育にとってきっと意味があると感じられる瞬間は苦しくはなかった。しかし、上から「やれ」とわけもわからず押し付けられた仕事で自分が疲弊していくときは苦しかった。そして、なんでこんなことしなくてはならないんだと悩んだ。もちろん、必要以上に肉体的・精神的に苦しむことはそれ自体が苦しく悩ましいものだろう。

悩むということは苦しみをどうにかしたいというモーメントを通して起こってくるものなのであろう。苦を脱したいが、苦を脱することができず、我々は悩む悶え苦しむのだ。それが苦悩の意味ではないかと考えた。

ここで思われるのは、私たちの根本的な苦悩とは、「真実がわからない」という一点にあるのではないだろうか?何のために生まれてきたのかわからない。皆目検討がつかない。そして、何のために生まれてきたのかわからないのに、生きていかなくてはならない。そういう生命全体が抱える虚しさがある。

だから先程考察したことにより、虚しさ=苦悩であるのだから、我々は、本人が意識していようがいまいが苦悩を抱える存在だと言える。

その事を強く感じるか、そんなに感じないかは個人差があると思う。

そんなに感じない限り、日常的なやりがいなどを見つけることによって生きていくことができる。しかし、その苦悩を強く感じる人は、どうしても、宗教を求めざるをえない。(※3)つまり、私たち誰もの心の根底に宗教心があるのであろう。というよりも、この虚しさを何とかしたいという心を宗教心と呼ぶべきものなのではないか?

たしかに、別にその宗教心に着目せずに生きていくこともできる。しかし、人間がそもそもなんのために生きているかわからないからこそ、人間と宗教は切り離せないものなのではないかと考える。

引き続き宮下晴輝先生の本から引用する。

私たちはまさしく現に真実を求めているから疑いがあり、死によっても消え去ることのない喜びを求めているから苦しみがあるのだと言えるでしょう。(『はじめての仏教学』p.70)
なぜ苦しむのか。それは真実を求めているからです。苦しみをそれ自体を支えているのは、真実を求める心なのです。苦しむという形で、私たちは、真実を求めているのです。何も信じられないという苦しみのただなかに、真実を求める心が現にあると認めざるをえません。(『はじめての仏教学』p.70)

宮下先生は、人は真実を求めるから苦しむのだと説示する。全く真実を求めていなければ、そも苦しむことはないというのだ。確かに、これもよく分かる。私たちが、ロボットの様に働かされて悩むのは、私たちにはロボットとは違う、真実なる生き方がある…とどこかに想定しているからだ。そして、その想いはとても大切なものだ。暴走族が暴走するのも、俺たちは学校や社会に縛られて生きるのとは違う、もっと生き生きと生きていきたいという深い願いがあるからではないか。


親鸞浄土教への接続

人は真実を求めるという形で宗教を求める。しかし、真実を歩んで行く先に想定し努力していく形の宗教では、途中で死んでしまったら、その歩みは虚しいものになってしまう。そして、私たちは次の瞬間死ぬかもしれないという生命を生きているかぎり、ほとんどの場合、真実を求める中途で終わるということになってしまうだろう。親鸞の浄土教がすごいなと思うのは、どんな人の人生も決して虚しくしないと真実の方から呼びかけているという点だ。真実の法が今すでにこっちに届いているという形をしているからだ。

中途で終わったとしても、決してその人の人生を虚しいとは言わせないと、我々の方に届いている教え。これが親鸞浄土教の尋常ではない所だと思う。その教えは決して仲間外れをつくらない。国籍や能力やあらゆる障害やら人間の違いを問わない。いや、私たちの多くは、ほぼ例外なく、何も分からないまま、悶え苦しみ一生を終えていくのではないか。それこそ、明日コロナで亡くなるかもしれないのが人生だと思う。しかし、それを決して無駄にしない。しかも、迷っていることを取り去ってしまわない。迷っているままに、救うというのだ。親鸞浄土教がもし迷いを取り去って何の悩みもなくすような教えならば、私はそんな教えはいらない。最後まで悶え苦しむ人間のその苦しみを、無駄だとか邪魔だと言わないのが阿弥陀如来の教えなのであろう。(※4)

では、親鸞の教えでは人間はどのように苦悩を超えていくと説かれているのか?また、親鸞思想において苦悩はどのように説かれているのか?今後経典の文章を参照しながら考えて行きたい。


(終)

【脚注】

(※1)例えば、親鸞の著書『尊号真像銘文』に次のように書かれている。
「「心照迷境」といふなり。信心の珠をもつて、愚痴の闇をはらひ、あ
きらかに照らすとなり。」(『浄土真宗聖典-註釈版-』p.664)

(※2)
例えば、親鸞の主著『教行信証』には

これすなわち権化の仁斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。(『浄土真宗聖典-註釈版-』p.131)

如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。
(『浄土真宗聖典-註釈版-』p.231)


(※3)
この考えをバックアップするものとして、私は赤坂真理さんの『愛と暴力と戦後とその後』の文章を提示したい。
「私は、どんな集団でも人口の一定割合は、出家するのが向くような人たちであると思っている。多くはないが一定割合、世俗で成功するより世俗から隠遁して祈りの日々を送ることを願う人たちは必ずいる。それは人間集団の自然であると思っている。出家を志向するような人たちは、人間として弱くて世俗で働けないからそうするわけではなく、彼らの自然だからそうするのである。そうして人間社会の多様性とバランスに貢献する側面もある。」
(『愛と暴力の戦後とその後』(赤坂真理))
この文章を読んだ時、私は勇気付けられた。なぜなら私もまた、世俗の中では何だか居場所を見つけられず、なぜか出家に引き付けられたからだ。そこに理由などなかった。


(※4)これは、決して差別や人権侵害等の社会問題を放置しておいていいということではない。そうした問題は、実践的に取り組んでいかなければならない。すでに十分苦しんでいる人間同士が、ますます苦しむようなことを仏教は決して推奨しない。親鸞自身、鎌倉時代の権力者を厳しく批判している。親鸞の手紙の中には次のような文章がある。

「もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。しかるに、なお酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬに、なほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩不足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。」


 

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