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自我肥大の何が問題か?

⑴最近のTwitter上で気になる人々のふるまい

2020年の4月に前職を辞してから、マンガを描くようになった。それもあって、Twitterをよく使うようになった。Twitterを使っていると、自分のふるまいや他人のふるまいの癖や傾向のようなものが見えてくる。

そのようなふるまいで最近気になっていることがある。自分を肯定してくれるような言葉を探して、安心するというふるまいだ。


とはいえ、「このふるまいが悪だ!」などということではない。それによって多くの人が救われるようになった面が大きい。例えばだけれども、「寝たいときは寝ていて大丈夫」というつぶやきがTL(タイムライン)上に流れてきたとする。それによって、今まで寝たいときに寝ることが罪だという価値観にしばられていた人は解放される。これは多くの人にとって救いになる。

しかし、その一方で、自分の行いを答え合わせして「それで良いよ」と言ってくれるような発言を探して留飲を下げるという行動を続けることの中に何か問題があると感じるのだ。


⑵自我の肥大

上にあげた行為はむしろ我々にとって自然なものだといえる。私たちはこれまでどれだけマンガや小説、映画などの物語から自己を肯定され、勇気を与えられてきただろうか。肯定の物語があるから、我々は健やかに生きていられる。Twitter上の言葉も、こうした肯定の物語と考えれば、むしろ良く生きる支えになる。

ただ、肯定を与えられ続ける。肯定される言葉だけをチョイスして集めたり、探しに行くという行動に何か問題を感じるのだ。

こう考えるきっかけになったのが、先日あるお寺で聞いた法話だ。尊敬する浄土真宗の僧侶が法話したのだが、このようなことを言っていた。

「現代、我々は自我肥大を起しているのです。自我が肥大すると世界がせまくなります。傲慢になる事で世界が狭くなる。我々は肥大した自我ですべてを手段にしてしまいます。すると例えば大いなる大自然のような「大いなる」世界を失っていくのです。昔は台風がくるのは風神・雷神が来たとか言ったわけでしょう?そういう世界を失って世界が狭くなった」


肯定によってもたらされるのは自我の満足である。「自分はこれでいいのだ!」という思い。確固とした自分があるという思い、コントロールできるという思いの強化である。実はこの自我が強化されていくからこそ、私たちは人前に出たり、仕事が出来るようになったりする。社会で歩めるようになる。自我がなければ、悩む事もなければ、他者に立ち向かう事も出来ないのだ。

しかし、仏教の中道(=極端を離れること)ではないが、自己肯定が行き過ぎるとそれもまた問題があるのだろう。

それが自我の肥大だ。「私は力がある。やれる、思い通りにできる。世の中にある物を道具化していいんだ、支配できる。」という感覚や思考が強くなっていく。

もちろん、肯定を自分から探し回らなければならないほど、現代の私たちは否定され、拒絶にさらされているのだと思う。

しかし、自分の好きな人だけ選んで友達になれるTwitterでは、自己肯定の爆撃を受けているような状態になる。

近所の魚屋に猫が住んでいるのだが、エサが食べ放題なので太りすぎている。どんなに良いものでも摂取しすぎるとだらしなくなる、俊敏さがなくなる。

Twitterはその自己肯定の爆撃により、自我肥大を一気に進めうる、そういう危険があるのではないかと思えるのだ。

肯定による自我肥大の方向、それによって幸せになろうとする方向、そこには何かが抜け落ちているのだと思う。


⑶自己肯定の連続を求める方向には何が欠けているのか?

Twitterでは、あまりにも沢山の自己肯定の言葉が流れてくる。それにより、「自己肯定疲れ」のようなものがあるのではないかと感じる。自分自身も、最近少しTwitterに疲れてきた感覚があるが、理由の一つは、自己肯定疲れかもしれない。

さて、もう一つ、自己肯定の連続を求める方向には、何かが抜け落ちている。それは、「悲しみ」ではないだろうか?

自己肯定によって、「俺はこれでいいんだ、イェーイ」と言っているときは、おそらく、「今悲しんでいる他人の事」が見えてこない。浮かれていたら人の悲しみは見えてこない。

仏教では「天界」という(仏教でいう)神様の世界がある。神様は何でも思い通りになる存在だ。しかし、仏陀から見れば、天界も迷いの世界の一つでしかないのだ。なぜか?色々な理由が語られるが、一つは「何でも思い通りになると、本当に大切なことを考えなくなる。他人の痛みが分からなくなる。」つまりは課題を見失うのだ。そうしたあり方は、決して本当の救いではないのだと仏教は説く。何も課題がなくなった状態が人間にとっての救いではないのだ。むしろ、人の痛みを、自己の問題として見いだすような在り方にしか本当の救いはないと説かれる。


自己肯定を求めて、自我をたくましくしている間は、人間が人間を見失っているのだ。悲しむべき自己の状況、世界の状況を忘れている。

鎌倉時代の僧侶親鸞の言葉に次のようなものがある。「まことに傷嗟すべし、深く悲嘆すべし」(筆者の解釈を加えた訳:煩悩にまみれた愚かな凡夫は、計り知れない昔から、真実の道理を知ろうとすることもなく、自分自分という思いにとらわれているから迷いの生を繰り返して来た。まことに悲しむべきであり、深く嘆くべきことである)(『教行信証』)

親鸞の言葉には、いつも、根底に悲しみがある。救いの喜びは、悲しみの自覚と共に成立している。

仏の道理は、決して自己肯定の言葉ではない。むしろ、間違っている事は間違っていると言ってくる教えである。

自らを正すには、見たくないものを見るほかにはない。見たくないものを見なければ、永遠に自分が正されることはない。

自己肯定の言葉を永遠に求めていれば、そこでは自分が変ることがない、正されることがない。悲しみに目覚める事もない。閉じた世界を造っていく。

悲しみが抜け落ちることが、もしかしたら最も悲しい事なのかもしれない。


すでに、かなりの文字数に達している。この文章内で対策まで考えることは出来なかった。しかし、自己肯定を求め続ける事、さらにそれによる自我肥大には何か問題があるという事を考えてみた。

自己肯定というのは、薬物と同じで中毒性があり、どんどん欲しくなり惰性で摂取してしまう。そして、そこで閉じた自分だけの満足の世界を作っていく。その閉じたあり方にある種の不幸があるのではないだろうか。

(終)




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