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悲しみは力に、欲は慈しみに、怒りは智慧に導かるべし~宮沢賢治の言葉から考える~

宮澤賢治の言葉に次のようなものがある。

悲しみは力に、欲は慈しみに、怒りは智慧に導かるべし

保阪嘉内あて書簡165
(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より

怒りは智慧に導かれるべしというのは、「怒りは智慧に変えていけ」ということだと考える。しかし、これは全く勝手な読み方であるが、「怒りは智慧に根差し・導かれるべきだ」と読む事は出来ないか?


私は、僧侶が質問をメールで受けてそれに返答するという活動を手伝っている。そのサイトは複数僧侶が回答をお互いに見られるようになっており、質問・回答もすべて公開しているので一定の健全さは保たれているように思う。(ただそのサイトに問題は色々あるのは確かである。例えばその一つが、僧侶は1000文字でしか回答できないことだ。たった千文字では何も伝えることができないと思うのだ。)そのサイトにこんな質問があった。内容を一部変更し、転載させてもらう。

質問
3歳の甥っ子がいる独身女です。
このところ、小さな子供の虐待のニュースや事故のニュースを見るのが辛くて涙が止まらなくなり、気分が悪くなることがあります。 見なければいいと思い、テレビのニュースはほとんど見ないのですがスマホで検索サイトを見るとどうしても目に入ってしまいます。
私自身には子供はいませんが、甥っ子が身近にいるからか胸が苦しくなりその事件の事ばかり考えてしまって数週間引きずってしまい、一人でよく泣いてしまいます。コロナ禍でストレスも溜まっているのかもしれません。
どうしたって助けてあげる事はできない、自分は無力でしかないのに、何もできない子供が辛い痛い思いをして死んでいく事が受け入れられないです。
鈍感になって間に受けないようにすればいいのでしょうが、どうすればいいのかわかりません。
考えたって仕方ないかもしれないですが、苦しく、悲しいです。
何の罪もなく亡くなった子供は、あの世で幸せになれますか?
残虐な殺し方をした人間はあの世で苦しみますか?
他人なのに、許せなくて辛いです。
お考えをお聞かせ願います。

(30代女性)

この質問は、とにかくやはり心の乱れを何とかしたい。その方法を教えて欲しいという問いだと思った。しかし、私はそう言う事は可能なのだろうかと思うのだ。子供が虐待されている現実がある中で、それをまったく見ずに、それから逃れて自分だけ楽に生きるということが成り立つのか?もし仏教がそうした形で人の悩みを抜き去り、楽に生きていくことができるような教えだとすると、それは相当恐ろしい事ではないだろうか?自分だけ悩みの種も、心配も無くなるような薬のような教えなのだろうか。私は、質問者の願い通りの答えではないと思いながら次のように回答した。

回答
近藤丸
虐待は社会問題の面もある。身を動かすことが大事では?
考えを聞かせて下さいということですので、個人的な意見ですが述べさせて頂きます。
私は思うんです、多分私たちも、この問題に苦しまなければならないのだと思います。一緒に苦しまなければならない。辛いですけど、受け入れられないままに、この問題に一緒に悩んでいく、聞きたくない問題です。でも一緒に苦しむ責任のようなものがある気がするのです。

おそらく質問者さんはこの質問をした根底に「虐待した人が、地獄へ行く」と聞いて安心したいところがあるのではないかなと思いました。「虐待した人は地獄へ行きます。虐待された子は極楽へ行きます。安心して下さい」と言えば、我々は安心し、虐待の問題を少し忘れて生活していくことができるでしょう。でも我々が本当に心の底から求めているのはそういう事なのでしょうか…。多分虐待される子が最後の一人までいなくなるまで我々も一緒に本当は苦しまなければならないのではないか。(仏様はそうします)そう思います。だとすれば、私たちにできるのは、嫌でも・辛くてもしっかり社会の問題に目を開いて、何か自分ができる行動を一つでも起していくそういう事なのではないでしょうか。社会に働きかけていく。

虐待は社会問題の側面があります。もし、保護者がもっと余裕があれば、保護者をサポートするような環境があれば、社会全体で子供を本当に育てていく環境が整っていれば、きっと虐待は減るはずです。例えば社会保障・教育に力を入れているフィンランドは最も児童虐待の件数が少ないです。日本は子供の安全が低い国です。これは、社会問題の側面がある。だから、それを放置し続けている我々も虐待に無関係ではない。簡単に心の問題・来世の問題にせずに、まず我々は社会や教育の状況を少しでも良くするために運動しないといけないと思います。そういう側面を忘れてはいけないと思います。少しでもそういう運動に参加していく事を少なくとも気づいた人はしないといけないのではないでしょうか?

その上で仏教の教理から言えば、(私の専門としている浄土真宗の場合です)子供を虐待した人は、もしその事を本当に懺悔し、「ごめんなさい」という心を起さなければ、輪廻し、その罪を償うまで苦しむと言えるでしょう。一方虐待された子は、仏の慈悲により仏になります。しかし、私達はそういうことを本当に聞きたいのでしょうか。本当は、問われているのはこの問題を目撃している私達だと思います。虐待がある世界に生きている私たちは本当に虐待する親や子と違うのかを問われています。
(以上 1000文字)

先日5月24日にアメリカのテキサス州の小学校で小学生19人、教師2人が銃撃を受け殺されるという事件が起こった。もう何度も何度もみた光景である。NBAのゴールデンステートウォーリアーズのスティーブ・カー監督がこの事件の直後の会見で声を荒げて、激怒したということが報道されていた。

カーは、会見で今日はバスケの話をもうしない。もうたくさんだ!私たちはいつになったら何かするのだ。バスケの試合の前に黙とうだけして、楽しく再びバスケットボールの試合を観戦したり、応援したりなんかできない。という主旨の事を述べた。以下少し長いが会見でカー氏が述べた言葉を引用する。

一体いつになったら、何かするんだ!?絶望している家族にお悔やみの言葉を送り続けることに、もううんざりしている。言い訳を聞くことにもうんざりしている。黙祷にもうんざりだ。もう充分だ!現在、銃購入時の素性調査を強化するH.R. 8という、数年前に下院が可決した法案に投票することを拒んでいる上院議員が50人いる。その理由は、自分たちの権力を守りたいからだ。だからこそ、今問いかけたい。ミッチ・マコーネル(上院少数党院内総務)ら上院議員の方々、学校やスーパーで発生する銃乱射事件に対して何もしようとしないあなたたちに問いかけたい。「児童、年配者、礼拝者の命よりも、自分たちの権力を優先するのですか?」そういう風にしか見えない。毎週こういったことが起きている。もううんざりだ。もうたくさんだ。今夜、これから試合を行うわけだが、ここにいる全員、これを聞いた人全員にお願いしたい。自分たちの子供や孫、両親、兄弟姉妹のことを考えてみてほしい。今日同じことが自分の身に降りかかったらどう思う?こういった事件に対して、感覚を麻痺させてはいけない。事件について読んで「そうか、残念だね。黙祷しようか。よし、GO DUBS(ウォリアーズ頑張れ)!」では駄目なんだ。「マーベリックス頑張れ!」では駄目なんだ。しかし、実際はそうなる。これからバスケットボールの試合を行う。一方で、50人の上院議員によって我々は人質にされている。支持政党にかかわらず、アメリカ人の9割は素性調査を求めている。9割だ。それを、ワシントンDCにいる50人の上院議員が差し止めている。国民が求めていることを、投票しようともしない。自分たちの権力が大切だからだ。情けない! もうたくさんだ!

The Sporting NewsHPより

カー氏の怒りは、悲しみに根差した怒りである。この怒りは大切なのではないか?カーの怒りは、権力の為だけに人の命を犠牲にしても構わないと思っている、銃規制に反対する50人以上の議員に向けられている。しかしその怒りは、そうした議員をいつまでものさばらせている自分たちに向けられている。自分にも向いている。いつまでたっても無関心な私達、自分に向いている。カー氏が言うように、こうした事件に慣れては決していけないのだ。怒りの力を社会を少しでも良くする方向に変えていくことに使わないといけない。

賢治が言う、「怒りは智慧に導かるべし」とは、智慧に導かれた怒りは大切だと読むことができるのではないか。そう妄想した。

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