音韻論と音声学へのアプローチ(APAP20)への旅
チョムスキーは、魅力的な概念を提示することにはたけているが、
それに単純明快な定義を与えることは苦手だ。
(今回の発表より)
-1- 先行きの見えないポーランドへの旅
コロナ禍が始まって3年半も海外に出かけず、
旅行の準備のやり方をすっかり忘れてしまった。
外務省の友人にそういうと、
彼は「パスポートとクレジットカードだけあれば大丈夫」と。
そうだ、何もしなかったのだった。
小ぶりのスーツケースに、パソコンと着替えと土産(茶飴)と
食料(鉄輪温泉で蒸したゆで卵と
英彦山で一昨年の夏至の日に頂いてきた梅干し)をもって、
大分駅からエアライナーに乗った。
今年になって、言語学の国際学会のリアル開催が増えたので、
各地の学会に英文300語~500語、
頁数にして1~2枚の予稿論文をすでに20本以上送っているのだが、
最初に採択されたのがポーランドのルブリンにある
ヨハネパウロ2世カトリック大学で開催される音韻論の学会だった。
ルブリンで採択された論文は
「外部言語と内部言語のイディオタイプ音韻ネットワーキング」という、
免疫抗体と抗原のネットワークによって脳室内で言語が処理されていて、
それが文字列やbit列ともネットワークするという壮大な音韻論である。
オンライン参加できないかと聞いたところ、できないというので、
東京(成田)―ワルシャワールブリン、
大分―東京(羽田)の航空券を手配した。
ここまでは順調だった。
4月末に、学会事務局から、
5月15日までに100ユーロの参加費を払うように指示があったので、
大分の銀行からは海外送金できないので、
当日現金で払えないかと申込用紙に書いて送ったところ、
それから全く返事がこなくなった。
返事がないので不気味に思い、
パリのユネスコ時代の仕事仲間に、
彼のポーランド人の奥様のスマホから
ポーランドの銀行に100ユーロの送金を実施してもらい、
相当額を円貨でご主人の日本の口座に送金した。
それが5月の頭。
その旨を学会に連絡したけど、やはり返事がこない。
そのうち、僕の発表がリストから消えていた。
ヤバいと思ったが、騒ぎだてしても余計険悪なムードになるだけ。
航空券を買ってしまっているので、
最悪観光旅行になってもいいやと腹をくくった。
ポーランドに出発する日に、
送金したエビデンスを写真で送ってもらい、
メールに添付して、学会事務局に
「行きますよ。5月1日の送金が届いていることを祈って」
というメールを成田空港から送った。
-2- 2発の原爆よりもたくさん殺したホロコースト
発表の時間枠をもらってないので、発表準備はしないまま、
「道元と宇宙」の20回連載にどっぷりつかっていたら、
アマゾンが「ソハの地下水道」という本を勧めてきた。
ナチス時代のポーランドで起きた実話を、
ジャーナリストが生存者に聞き書きしたものだ。
リアルな話は力がある。
下水道技師の手引きによって、
汚水の流れる地下下水道に1年4カ月もの長期間隠れることで、
ホロコーストを生き延びた家族の話だった。
ホロコーストを身近に感じた。
映画の舞台となったルヴォフは
現在ウクライナ領になっていて容易にはいけそうにない。
ナチスがユダヤ人を抹殺したホロコーストは、
アウシュビッツをはじめとして
ポーランド国内に建設された収容所で行われた。
学会の開かれるルブリンから100㎞くらいのところに2カ所あるのだが、
ナチスは収容所を破壊して植林までして撤退したために、
現在その跡地が博物館にはなっていないようだった。
ルブリン郊外に建設された、
マイダネク収容所跡地が国立博物館になっている。
ここに行こう。
お線香と蝋燭とマッチをスーツケースに詰め込んだ。
成田空港でのチェックインの際に、
マッチはスーツケースに入れてはいけないことを知り、
カウンターでスーツケースを開いて、マッチだけポケットに移した。
東京からワルシャワまで、15時間。
飛行経路は、カムチャッカ半島に沿って北上し、
北極海を通過してヨーロッパに入る、冷戦時代のコースだった。
ボーイング787の航続距離が長いため、
アンカレッジで給油する必要がないのが救い。
でも15時間は長い。
眠くなって寝て、目が覚めて、
あと12時間、あと9時間、あと6時間といった感じ。
考えるだけ無駄。
三回目の睡眠から目覚めるとき、
唐突に「ワルシャワ蜂起」という言葉を思い出した。
学生時代にゼミの時間に耳にしたのだったか。
1944年、ワルシャワの近くまで赤軍が来ていて、
ナチスと戦っていると聞いて、ワルシャワ市民は蜂起した。
赤軍がそれに呼応して、ナチスから解放されると期待したのだった。
ところが、赤軍はすぐ近くにいたのに、その蜂起を見殺しにした。
たくさんのポーランド人(20万人の若者)がナチスに殺された。
飛行機の後ろのギャレーに、若くて一見知的なスチュワードがいた。
僕がワインボトルのラベルをみていると、
「白ワインだ」
「ポーランド産?」
彼は瓶をとって、ラベルを確かめて
「スペイン産だ」
黒い丸い実のジュースのパックを指さして
「ブドウジュース?」
「黒すぐり」そのまま会話が続く。
「あなたはポーランド人? マイダネクって知ってる」
「知ってる」
「行ったことある?」
「まだだ。アウシュビッツはあるけど。次の課題だ」
「オシュヴェンチム(ポーランド名)には、僕も行った。
今回はマイダネクに行くんだ。
ところで、ルブリン行きのフライトまで6時間もあるんだけど、
ワルシャワ市内は近いの?」
「バスで20分。6時間もあるなら、絶対に行った方がいい。
ワルシャワ蜂起記念館がある」
「そのことを考えていたんだ」
親切にも彼は
「175番のバスでZawisly広場, そこから路面電車の1、22、24で2停留所」
とメモしてくれた。
ワルシャワ蜂起は30日続き、街は完全に破壊されたのだった。
1989年末に出張で寄ったとき、殺伐としていて、
スターリン時代に建設された巨大なビルが威圧的だったことを思い出した。
あのとき、朝ワルシャワのホテルから付近の街をジョギングしたら、
なにひとつゴミが落ちていなかった。
経済的に余裕のなさを感じたことを思い出す。
「カチンの森はいつだっけ」
「1942年じゃなかったかな」
カチンの森事件というのは、ポーランド人将校が大量に殺された事件で、
ナチスの仕業と言われていたのだけど、
実はソ連がやっていたことがわかった。
カチンの森、ホロコースト、ワルシャワ蜂起、、、、
実に悲しい出来事ばかり。
それも知識レベルの高いほうから狙われた。
ワルシャワ蜂起博物館は、市電の変電所をうまく改造していて、
飽きないつくりで、楽しめた。
この博物館が作られたのは、
ベルリンの壁が崩壊して10年以上もたった21世紀に入ってから。
社会主義の時代には公にはできなかった話なのか。
1944年8月1日、ワルシャワのすぐそばまで進行してきた
ソ連軍からの連絡があったのだ。
それを受けて、ワルシャワの市民が蜂起したのだが、
結局ソ連軍は何もしなかった。
梯子を外されたというより、罠にはめられたというべきかもしれない。
-3- マイダネク絶滅収容所
ルブリンで学会の前日が自由だったので、
マイダネク収容所を訪れた。
もともと収容所は270haあったのだが、
そのおよそ3分の1が国立博物館として保存されている。
中を見学しながら歩くだけで2~3時間かかった。
シャワー室があって続きにあるガス室、
囚人の住んでいた三段ベッドの置かれた建物、、、、。
見学のあと、資料室を訪れたところ、
担当者と1時間も話をすることになった。
「ドイツは戦争も遂行しているときに、
よくこれだけの人材、輸送能力を集中して、
比較的短い期間に、効率よく絶滅計画をやったもんだ。」
と僕が感想をいうと、最近その研究が出ているという。
(英語版はまだだが、Dariusz Labionkaの著作)
責任者であったヒムラ―が、
きわめて計画的に実行したのだという。
収容所が実働していたのは2年足らず(1年半)で、
150万人を殺した実行力には恐れ入る。
ホロコーストについては、
数字が誇張されているという説もあったが、
広大な敷地を見て、
たくさん効率的に殺していた面影をリアルに感じたので、
来た価値はある。
「ドイツは、収容所から撤退するときに、設備を破壊しつくして、
植林までして痕跡を残さなかったというけれど、
悪いことをやっているという自覚はあったのですよね。」
職員は職務上の秘密を口外しないという契約に署名されられていたし、
囚人の受け入れや死刑執行についても
できるだけ記録を残さないよう配慮していたという。
収容所を生き延びた人たちの手記を読むと、
人間がどこまでも残酷になれることに驚くほか、
希望を失わず勇気をもって行動すると生き延びる可能性が高まることも学べる。
でも、個人の手記をいくつ読んでも、
この収容所の広大さは感じ取れない。
そして、大小の差はあるものの、収容所は各地にあったのだ。
足が疲れるまで、構内を歩く価値はある。
ポーランドは広大な平原のなかに国があるため、
西からドイツに、東からロシアに攻められ、
何度も国が亡くなるという悲哀を味わった。
そして、ワルシャワ蜂起のときのように、知的レベルの高い人から殺された。
このたびNATOに加盟したので、
ドイツから攻められないだけでも安心できると、
資料室の彼はいっていたが、本心は不安なのだ。
ヴィスワ河が防衛線になるのだが、
ルブリンはその東にあるので、何かあったときには平和に暮らせないと言った。
「家族ともども難民になるのは、困るからね」というのだが、
難民になっても生き抜くくらいの覚悟がないと生き残れないのが
20世紀の教訓ではないだろうか。
-4- ヨーロッパのカンボジア
ポーランドという国が、
何度も領土を失ったということは、言葉では知っていた。
だけど、それがどういう効果を現代に及ぼしているのかは、
実際にそこを歩いてみないとわからない。
ポーランドは、ヨーロッパにおけるカンボジアである。
外国勢力によって、国土が戦場となり
、頭のいい順番に大量の国民が殺され、
知恵が足りず従順に生きるしか知らない国民だけが生き残る。
食料品やガソリンなど物価は高く、
スーパーで大量に買い物している人は少ない。
老舗のお菓子屋や工芸品の店もない。
旧市街にいくとレストランやカフェはある。
生きるだけでやっと、という感じ。
全体として文化の匂いがしないのだ。
学会の雰囲気もいま一、いま二だった。
そして、今も、
明日また大国の戦争に巻き込まれてしまうのではないか
と不安におびえている。
お土産品がない。
スーパーで売っているブルスケッタを試食したところ、
下半身に蕁麻疹。
おそらく放射能汚染している小麦粉で作っているのだろう。
珍しくカフェのカウンターに手作りクッキーを売っていたので、
のぞいてみると、ハエがたかっていた。(驚愕)
-5- オフでの出会いを楽しむ
4年近くぶりにリアルの学会に参加して、
一番面白かったのは、たまたま同じホテルに、
ミネソタ州セントポールにある大学から、
カトリック教徒でソフトウエア工学を教えている先生が泊っていて、
友達として交流できたことだった。
年も近い(彼は僕より4~5歳年下)こともあり、
朝食を二回共にして、お互いの発表も聞いた。
学会初日のランチで初めて言葉を交わして
、わずか48時間後にはお別れしたのだが
、何年も付きあったくらい深い交流ができた気がする。
僕の本「文法処理の脳内メカニズム:デジタル言語学」(英語版)を買ってくれ、
読んだら面白かったと言ってくれた。
さらに、妻が昨年出したCD「画狂老人卍 七つのアネクドート」も買ってくれ、
「実は自分も地元の楽団でトランペットを演奏していた」と教えてくれた。
またどこまで会えたらいいね、という残心でお別れした。
僕の発表も、ここにきてから作り始めたのだけど、
他のことができないこともあって、20分の発表にみんな釘付けだった。
「チョムスキーは、魅力的な概念を提示することにはたけているが、
それに単純明快な定義を与えることは苦手だ。」
これは会場の笑いを呼んだ。
「だから定義は僕がする。僕の定義は単純明快だ。
外部言語とは体の外にある音である。文字列もbit列も音である。
内部言語とは、体の中にあるアミノ酸配列と核酸による符号化である。
それは意味を構成する。」
今回の話のキモは、
外部言語と内部言語が自由にネットワークすることであるので、
途中で、「音声のどの要素が、脳を刺激すると思いますか」
という質問を会場に投げかけた。
招待講演者の英国人名誉教授も、「さっぱり思いつかない」という。
そこで僕は千葉勉が昭和10年に出版したアクセント研究をもとに、
アクセントのストレス成分(intensity)とピッチ成分の二つの波形が多重化すると、
三次元波形を生み出し、それは
ストレスの二乗とピッチの二乗を足して平方根をとった量のエネルギーを生み出す
と説明した。
自分の知っている知識とまるっきり違う仮説を突き付けられて、
反発したであろうに、最後まで聞いてくれてよかった。
会場の全員が、千葉勉も鈴木孝夫も知らなかったのは、残念である。
学者はもっと本を読むべきだ。
国際学会は、オンラインでやるには、もったいない。
時間も金も使って、学会の開催地に移動して、
家族や職場から絶縁した状態で、学会に臨む、ことが重要であると思った。
(2023.6.25 ルブリンのホテルの朝食会場にて、得丸久文)
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