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ピアノを拭く人 第3章 (3)

 

 閉店後、透はマスクの中で「僕こそ音楽」を口ずさみながら、クロスに鍵盤用クリーナーを垂らし、鍵盤を1つ1つ丁寧に拭き始めた。


 彩子の視線を意識してか、透は「この後、乾拭きするだけだから」と決まり悪そうに言った。彩子は「何も言ってないでしょ」と唇を尖らせながらも、透が以前のように目を吊り上げ、何かに憑かれたように拭いていないことが嬉しかった。

 鍵盤を拭き終えた透が、ピアノの椅子をアルコール消毒しようとしたとき、彩子は「それ、必要ないんじゃない?」と口出しした。
「今は必要だろ。このあいだ、テレビを見てたら、生放送中でも、出演者が椅子から立ったとき、スタッフがすぐに消毒してた。病院でも、アルコールを持った清掃員が、患者が立つたびに椅子を消毒してるだろ」


 そう言われると、彩子は割り切れないものを抱えながらも、主張を通せなくなる。
「確かにそうだね……。手洗いやアルコール消毒が当前の風潮のなかで、今までは、やりすぎに見えたことが当たり前になるから、透さんの症状も目立たなくなるんだね……」
「新型コロナウイルス感染防止対策があるから、シオリのような不潔恐怖とか疫病恐怖、俺みたいな加害恐怖を持つ人は、どこまで清潔にするのが普通で、どこからが強迫行為か、線引きが難しくなるんだよ。そもそも、コロナのせいで、シオリは再発したんだ。そういう人は他にもいると思う。コロナをきっかけに、強迫神経症を発症した人もいるんじゃないか?」
 

 透はピアノの椅子を拭きながら言い継いだ。
「ERPだって、コロナで制限を受けてるんだ。入院中、赤城先生と桐生心理士は、4人の患者に互いの症状とエクスポージャーを見せるために、本当はずっと6人で行動したかったらしい。だが、密を避けるために、できるだけ分散するように工夫せざるを得なかった。コロナのせいで、諦めたエクスポージャーもたくさんあるらしい。俺には、服や靴を試着して購入しない、購入した商品を別の商品に交換してもらって謝らないERPもさせたかったが、この時期なので断念したそうだ」
「そっか。強迫の治療にも、難しい時代になったね……」

 彩子の思考は、新型コロナウイルス感染防止対策が、社会にもたらす長期的な影響に、引き戻された。命を守るために導入されたマスクの常時着用、手洗い、アルコール消毒や検温は、暫定的なものでは終わらない可能性が高い。透やシオリのような症状の患者が、大胆なエクスポージャーと儀式妨害に挑戦するには、気が引ける日々が続くだろう。            

 同様に、自身が開発に携わるオンライン試験監督システムも、そのメリットがクライアントに認識されれば、コロナが一段落しても継続され、会場試験を復活させる割合が減少する可能性がある。


 透は「僕こそ音楽」を鼻歌で歌いながら、ピアノの譜面台を寝かせ、鍵盤蓋を閉めている。
「その歌、随分お気に入りだね。2年前に、ミュージカル『モーツァルト!』を帝国劇場に見にいってから、私も大好きだけど」
 彩子はテーブルの上に、メニューにアクセスするためのQRコードを印刷した用紙をセットしながら言った。
「ああ、俺は入院中にWAIS-Ⅳを受けて、神経発達症のADHD(注意欠陥/多動性障害)とASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)持ちだとわかったんだ。赤城先生に検査結果を説明されたとき、体中に音楽が溢れているところと、落ち着きのなさ、奔放さがモーツァルトみたいだと言われた。『モーツァルト!』とか映画の『アマデウス』を見ると、わかるだろ? 残念ながら、俺はモーツァルトみたいな才能に恵まれなかったが、妙に親近感を覚えた。この歌には、ADHDの彼の個性が凝縮されていると思わないか?」
「Lineのアイコン、モーツァルトに変えたのもそのためか」

「そんなことよりっ」
 彩子は近づいてきた透に、背後から抱き竦められ、「ひゃっ」と悲鳴を上げた。透の腕とアラミスの香りに包まれ、息苦しいほど鼓動が高まっていく。
「会いたかった。もう我慢できない……。俺はADHDだから堪え性がないんだ」
「ちょっと、羽生さん、まだバックルームにいるんじゃない?」
「さっき、車の音がしたから、もう帰ったよ。いたとしても、俺はモーツァルトみたいに礼儀知らずだから、気にしやしない。彼女に触れて何が悪い」
 透の吐息とマスク越しに首筋を這う唇を感じ、彩子は喘ぎ声を抑えて、黒いジャケットの腕に縋りついた。

「おいで」
 彩子は透に導かれ、拭いたばかりのピアノの椅子に座った彼の膝の上に、横抱きにされた。透は自分と彩子のマスクを外し、ジャケットのポケットに無造作に押し込んだ。透の端正なマスクが間近に迫り、彩子の頬が、かっと熱を帯びる。


 透に唇を奪われ、彩子は夢中で唇を重ねた。傷が治れば、自由に羽ばたいていってしまう鳥と追いかけっこをするように、彩子は彼と激しく舌を絡めあった。彼の情熱的な舌の動きが、全身を蕩けさせ、一切の思考を奪っていく。

 透の昂ぶりを太腿に感じ、心に渦巻く何もかもを、彼の腕のなかで溶かし、崩れ落ちてしまいたくなった。今ほど、生理中であることを呪った瞬間はない。 
 彩子は透の情熱を遠ざけてしまうことを恐れながら、先に進もうとする彼の手を押しとどめた。

「イブの日、20時で上がったら、家で過ごさない? 次の日、フェルセンのシフト、入ってないでしょ? 私も休み取ったから、夕飯作るよ。ケーキも焼いて、シャンパン開けよう」                  
「いいのか?」                          
「桐生先生の宿題で、◎が10個ついたらね」
「もう、5個ついた」
「本当に? 今度は私の前で、お客様にシンプルに対応して見せてね」
「今日だって、してただろ」
「丁寧すぎたよ」
「俺は今までが、無作法すぎたんだ。それを恥じて、気を付けているうちに、強迫症になっていたんだ……」