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澪標 14

 ニュース番組で、都内の今日の新型コロナウイルス感染者数が報じられていた。感染者、重症者、死者の数は毎日報道され、感染者の延べ人数は日々増加していった。

 ダイヤモンド・プリンセス号内で発生した新型コロナウイルスの集団感染が報じられた頃は、自分たちとは遠い場所で起こっている出来事だった。だが、国内の感染者数が増え、濃厚接触者、手洗い、マスク、三密、ソーシャル・ディスタンスなどの言葉が、連日メディアにあふれると、もはや無関心ではいられなくなった。

 土曜の午後、私はあなたと、ペパーミントティーを淹れ、私の焼いたパウンドケーキを食べながら、ニュースに耳を傾けていた。

「マスクの入手が難しくなったけれど、あなたは大丈夫ですか?」

「私は軽い花粉症があるので、幸い買い置きがありました。あなたは?」

「僕も使い捨てマスクが何枚かありますが、使い切ってしまったら、どうしようかと思っています。今はアルコールで消毒して2-3日使っています。もう手遅れかもしれませんが、ネットで購入できないか探してみます」

「こんなこと、そう長くは続きませんよね?」

「そうあってほしいですね。そうそう、先日、運営部の松嶋まつしま部長と、営業部の雨宮あまみや部長、僕と志津で話し合って、試験会場での感染防止対策についてマニュアルを作りました。クライアントに提示して、先方がさらに厳しい対策を希望するようなら、それに合わせることにした。営業部全員への通達が必要だから、週明けにミーティングを開きます」

「了解しました。ところで、先週、運営部が、マスクを入手できない登録スタッフ用に、会社の在庫をかき集めてました。当面はどうにかなるかもしれませんが……。こういう事態は想定外でしたからね」

「うん。総務が頑張ってくれて、フェイスシールドを大量発注できたようですが、マスクやアルコール消毒液は厳しいようです」

「早く以前の日常に戻ってほしいですね」

「本当にそう思います」

 あなたは、重くなった話の流れを変えようと、思い出したように話し出した。「そうそう、あなたが勧めてくれたダン・ブラウン『オリジン』読みましたよ。科学と宗教が対立するのではなく、手を取り合って人類の危機に立ち向かうべきという著者のメッセージが力強く反映されていて、心に響く作品でした。彼は『天使と悪魔』の頃から、そのテーマを追求してきたことが伺えますね」

「はい。北関東の水沢が、ブラウンのファンなので、私も影響を受けて、原作も映画も制覇したんです。だから、彼の思考の発展が読み取れて興味深いです。彼の作品は、『天使と悪魔』、『ダヴィンチ・コード』、『インフェルノ』と映画化が続いて、どれも大ヒットしていますよね。だから、『オリジン』も映画化されますよね?」

 あなたは、パウンドケーキの上に乗せたバニラアイスをスプーンですくいながら言った。「そうですか。僕はまだ『オリジン』と『天使と悪魔』しか読んでいないし、映画は1本も見ていないんです。でも『オリジン』こそ、いま映像化すべき作品だと思います。こんな時代だからこそ、科学と宗教が協力して危機を乗り切ることの重要性を訴える作品は必要です。僕は、映画よりは、連続ドラマにして、細部まで丁寧に描いてほしいと思いますけどね」

「確かにそう思います。映像化されたら、一緒に見たいですね!」

「うん、あなたと感想を話し合うのは楽しそうです。こうして、共有できるものがどんどん増えていくのはいいですね」

 顔をほころばせたあなたは、ペパーミントティーのおかわりを求めてカップを差し出した。

「暖かくなれば、コロナは収まりますよね。今年は夏が楽しみです。あなたと浴衣を着て長岡の花火を見に行けるし」

「僕も今から楽しみだ。あなたの言っていた土浦の全国花火競技大会を調べてみたけど、ぜひ行ってみたい。イス席はインターネットで購入できるようだから、売り出されたら押さえておきましょうか」

 カップを受け取ったあなたは、仕切り直すように低い声で話し出した。

「あなたには伝えておきます。以前、ここ数か月の妻の軽率な行動について、お義父さんとお義母さんに手紙で知らせたと話しましたよね。あれから、お義父さんから電話をもらいました。平謝りで僕に理解を示してくれました。もう十分だから、僕の好きなようにして構わないとまで言われました。高齢のご両親に心配をかけたのに、寛容に受け止めてくれる器の大きさに敬服しました。妻はご両親に注意されたらしく、僕は些細なことを大袈裟に告げ口をしたと責められました。妻は、いままで病気で好きなことができなかったのだから、お洒落をして友人と会って何が悪い、そこに男性の友人がいたとしてもそんなに咎められることではないと言い張り、自分には友人に会う自由もないのかと理詰めでまくしたててきました」

「奥様、大丈夫でしょうか? 御病気がそうさせるのでは……?」

「僕が見る限り、いまの彼女は、今まで見てきた軽躁状態ではありません。ここ数年の彼女はまともです。仮に軽躁状態だったとしても、もう僕が限界です。両親が醜い言い争いをする姿を毎日見ている息子への影響も心配です。近いうちに、この沿線か、会社の近くの物件を調べてみます。あなたは何も心配しなくていいですよ」

 予想以上に早く進行していく事態に、気持ちが追いついていかなかった。だが、私たちの背中を押す流れを確かに感じていた。

 東京オリンピックの1年延期が決定しても、私は新型コロナウイルスが私たちの生活にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。 

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 都内に緊急事態宣言が発令されると、私たちは延期になった試験への対応に追われた。

 試験会場で勤務する登録スタッフは、体温の申告、不織布のマスク着用、アルコール消毒が義務付けられ、大声を出す誘導スタッフはフェイスシールドを付けることになった。

 だが、本社オフィスでは、入口にアルコール消毒液が設置され、デスク間に透明のパーテーションが入った以外は大きく変わらず、健康管理は各自に委ねられていた。

 営業部は、対面営業を自粛し、電話とオンラインに切り替えた。営業部員が、会議室にパソコンを持ち込み、Zoomでクライアントと交渉する姿が目立つようになった。

 スクリーンを通しての商談は、相手の小さな表情の変化や息遣いなど言語外のメッセージを読み取るために、集中力が求められた。微妙な感情の変化が伝わりにくい分、YesとNoを明確にすることが必要だと学習させられた。

 あなたと会社以外で会うのは自粛し、電話やLineで話をすることが増えた。あなたは、コロナが流行しても試験自体はなくならないが、会場試験がオンライン試験に移行する契機になると読んでいた。上層部が、通信会社と共同で、オンライン試験監督システムの開発を考えていることも教えてくれた。私は、業界に押し寄せる大きな変化を意識しながらも、2人の関係についてはまだ楽観的だった。


               ★

 眠りから覚まされたのは、目覚まし時計より少し早くLineの通知音が鳴ったときだった。

 運営部の松嶋部長が、感染経路不明で新型コロナウイルスに感染したという連絡だった。会社は消毒のために1日立ち入り禁止になった。どこか遠くの出来事と認識していたことが、すぐ傍まで迫ってきたことを実感させられた。

 夕方近くになって、あなたから電話があった。あなたは声を落とし、自室で自主隔離中だと言った。驚いて言葉が出なかった。

「僕は濃厚接触者の定義には該当しないのですが、昨日の会議で、松嶋部長と1時間半ほど同じ部屋にいました。もちろん、彼も僕もマスクをつけていました。それでも、念のため、会社の指示で、彼と一緒に会議室にいた5名は、2週間は外出を自粛し、体調の観察をすることになりました。その中には志津も含まれています」

 あなたは、息を飲む私に、明日出勤したら、家で仕事をするのに必要な資料を添付ファイルで送ってほしいと指示した。

「あなたは、体調に変化はないですか? くれぐれも気を付けてください」とくぐもった声で気遣われ、電話を切ると背筋がぞくっとした。

 濃厚接触者の定義は調べていて、当てはまらないことはわかっていた。だが、あなたが、自分が、テレビで報道されているウイルスに感染しているかもしれないという恐怖が全身を飲み込んだ。体調に変化はなかった。だが、無症状でも感染していた方がいるとニュースで何度も報道された。もしも、自分が感染していて、会社の同僚、電車で近くにいた人などに感染させていたらと思うと言い様のない不安が全身を駆け巡った。スマホを握りしめていた手は、微かに汗をかいていた。

 未知のウイルスが引き起こす抗えない波が、状況を大きく変えてしまう予感がし、名状しがたい不安が消えなかった。


 この日を契機に、IT部の尽力で、テレワーク態勢が着々と整えられた。あなたの自主隔離が解除された頃には、別のフロアにいる取締役以外はテレワークが基本となった。やむを得ず、出勤が必要な部署も、密を避けるために、交替でテレワークをすることになった。

 営業部は、毎朝10時にZoomミーティングを行い、その後は各自が自宅から仕事をした。出社するのは、必要な資料を取りに行く際や、オフィスの機器を使用するとき、諸手続きのときだけに限られた。

 あなたの姿を見られるのも画面越しになった。あなたは壁紙で背景を隠し、自宅の雰囲気を一切感じさせなかった。毎朝ネクタイをきっちり締めたスーツ姿で画面に現れ、髪の毛もきれいに整えられていた。相変わらずのあなたらしさが愛おしかった。私も毎日メイクをし、服装も髪型も整えてノートパソコンの前に座った。あなたの目に入る私は、少しでも美しくありたかった。


 あなたからの電話があったのは、仕事が終わり、ニュースを見ながら夕食を摂っているときだった。

「実は馬橋駅の近くに部屋を借りて、そこにいます」

 衝撃を受けた私に、あなたは言い継いだ。

「松嶋部長の件で僕が自主隔離している頃、妻がコロナ感染を恐れて精神不安定になったんです。僕の隔離期間が終わっても、外で仕事をしている僕には、コロナウイルスがついているかもしれないと避け始めました。僕と息子はできる限り、部屋から出ないでほしいと言われ、トイレのために部屋を出るのも咎められる始末です。彼女は外出できなくなって、室内や僕と息子の衣服に、異常なほど除菌スプレーを吹き付けて消毒しているんです。息子や僕にも、外から帰ったら、すぐに着替えと入浴を要求します。僕や息子が買ってきた食材や日用品をアルコールで入念に消毒したり、洗ってからでないと、食べたり使ったりしません。僕も出社が必要な日がありましたが、その夜は特に妻の不安が強くなりました。それが続いて、僕は妻の精神安定のために、先月からアパートを借りて別居中です。妻が今の状態では、僕も仕事に集中できませんから」

「大変でしたね。奥様はもちろん、あなたと息子さんも……。あなたは大丈夫ですか? 仕事の時間以外も、そこにいるんですか?」

「ええ、ここで寝泊まりしています。家に戻るのは、買い物した食材や日用品を届けるときだけです。もともと、いまの物件の目星は付けていたのですが、当初とは違う理由で別居生活が始まってしまいましたね……」

 あなたは自嘲気味にいい、小さな溜息をついた。

「何か困ったこと、不便なことはありませんか? 私で良ければ、お手伝いに伺います」

「ありがとう。でも、僕たちはコロナが落ち着くまで、会わないほうがいいでしょう。もしも、どちらかが感染したら、濃厚接触者を特定するために、保健所に行動を尋ねられます。そうなると面倒でしょう。会社にばれたら、あなたの将来にも関わります」

「わかりました……」

 あなたの口調は事務的で、有無を言わさない響きがあり、反論の余地を与えなかった。

 「こんな状況にならなければ、もっと会えたのに……、淋しいです」

 私はあなたの気持ちが変わっていない確証を引き出したくて、答えを待った。

 あなたは「そうですね」と感情の起伏を排した声で答えた。

 あなたの言葉の行間から、変わらない思いを読み取りたくて、質問をいくつかしたが、求めるものは得られなかった。

「奥様、早く落ち着くといいですね」

「ええ、病院に行くのは怖いというので、オンライン診療が受けられないか、調べてみる予定です」

「そうですか。いい方向に向かうことを心よりお祈りいたします」

 歯車が少しづつ狂い出していた。