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【演奏芸術の在り方をめぐって】小倉美春×向井響×篠村友輝哉「音楽人のことば」第15回 後編


(前編はこちら

──現代的な表現をいかにして伝えるか

向井 美春ちゃんの話に、「楽譜からの逸脱が昨今の流行り」というのがあったけれど、それについてもう少し具体的に聴かせてもらってもいいかな?

 小倉 例えば、オーケストラで「そこそんなテンポでいく?」「音楽的にそんな展開ありえないでしょ」というような指示を出す指揮者が最近多いと周りから聞いていて。でもそれはさっき話したように難しいところで、私たちみたいに「モーツァルトはこうあるべきだ」というのをある程度共有している人たちだから、そう思うのかもしれません…(笑)。

篠村 おっしゃる通り、先ほど(前編)の向井さんの「文脈」のお話に繋がることなので、ここでそちらについて私からもコメントしたいと思います。古典オペラの演出なんかで、「読み替え」や「読み直し」と言われる、現代的な意匠を施したものが、もうずっと一つの大きな流れを作っていますよね。これに関しては極端に嫌う人もいるのは理解はできますが、僕は割と、オーソドックスな演出よりは、そういう演出の方が好きで、何より可能性を感じています。それはなぜかというと、これは好みの問題もありますし、そうでない作品もあるかもしれませんが、古典の台本のストーリーや台詞というのは、現代の視点で見たときに、どうしても物足りないと感じてしまう人は少なくないのではと思うんです。それをそのまま、それこそ「再現」しても、音楽が素晴らしくても、あまり現代のこと、自分のこととして感じられないと思ってしまう。敢えてこういう言い方をすると、わざわざ古典を現代の人に届けるなら、やっぱり作品に描かれていることを、アクチュアルな問題として受け取ってもらえるようにどうするかというのは、考えなければいけません。
 それで、この話というのは、二年前の向井さんとの対談のときにもチラッと話したように思いますが、何も舞台演出に限ったことではなくて、演奏においても言えることだと思うんです。例えばヴァイオリニストのクレーメルとか、ピアニストのポゴレリッチ、もう少し違うところだと指揮者の故アーノンクールとかの演奏は、「演奏における現代演出」みたいなことをやっているとは言えないでしょうか。かれらの演奏は、確かに好き嫌いは分かれるでしょうが──僕自身は好きでもありますが──、たんに「異端」として面白がるのではなく、ひとつの演奏の在り方として可能性を感じています。かれらのような演奏は、聴いていて、やっぱり想像力を刺激されますし、いろいろ言いたくなるので、レビューを書いていても楽しいです。
 今僕が話したような演奏と、小倉さんがおっしゃった、単に奇を衒っただけの演奏とを見極めるときに、その「コンテクストをわかっているかどうか」ということが重要になってくるんだと思うんです。やっぱり、どんなに挑戦的なアプローチを採っても、そこに伝統として受け継がれているものが流れていれば、説得力が感じられるはずです。コンテクストの重みと新しいものとしての面白さは、両立可能だと思っています。

 小倉 現代演出は、成功している例と、本当に意図が見えないものとがあると思うんですけれど、その違いって何かと考えたときに思うのは、あまりうまくいっていないものは情報過多であるということです。現代におけるいろいろな問題があるとして、それをどれもこれも提示したい、みたいなところがあるかなと思います。それは演奏が奇抜すぎるときとか、作曲がうまくいかないときも(笑)、同じような感じかなと、お話を聴きながら思っていました。要するに、新しい要素を入れすぎると絶対にうまくいかない。やっぱり、前の何かがあってこその新しい要素、その組み合わせで時間芸術は成り立っているので。演奏でも、ここのセクションはこう奇抜にしよう、あそこのセクションはこう奇抜にしよう、としていたら、絶対にそれらはかち合わない。

向井 本当にその通り。解釈の余地がないというか、受け取り手にとっての余地や時間がないというのは感じるときがあるよね。演奏でもそうだし、自分が書いていても。僕も情報過多になりがちで、書いているそのときは、いくらでも時間をかけられるけど、演奏っていうのはやっぱり過ぎていってしまうものだから。書いているときは、いくつでもインフォメーションを入れられるんだけど、そういった全く余白のない、情報が多すぎるものって、音にしたときにひとつも(情報を)取れなくて終わってしまうこともある。最近自分が気を付けていることは、素材の設定。友人にデザイナーの人がいて、ミラノコレクションとかに出すくらいの、奇抜なデザインをしている人なんだけど、その人が一番大事なことは素材だって言っていて。その考え方に最近影響されて、「何を書くか」の前に、基となる素材をどうするかということを考えるようになりました。

篠村 その素材というのは、シンプルな方がいいと思いますか?

向井 ユニークなもの、かなあ。展開がそこから始まるわけだから。この前初演されたパルティータは、ポルトガル民謡を素材にしました。民謡ってやっぱり歌い継がれてきたものだし、ポルトガルの人たちがどう受け止めるかはわからないけど、日本の聴衆からしたらすごく異国情緒のあるものとして響くだろうし、(もともと)持っているものがユニーク。だから、それはうまくいくよなと(書いてみて思った)。これに味を占めてそういう曲ばかり作らないようにと思っています(笑)。

──「何を」と「いかに」

 篠村 今、「何を」と「いかに」の話が少し出ましたが、これに関しては僕は学生の頃からずっと、「何を」のほうが大切だと考えていました。「いかに」は、表現したいことのために考えるべきことで、まずそこがなければどんなに「いかに」を磨いても中身のないものになってしまうような気がしていました。
 でも、小説家の小川洋子さんがあるインタビューで「何を書くかよりいかに書くかだ」と、自分が考えてきたことと逆のことを仰っていたんですね。自分の愛読した小説の作家がそう言っているので、考えたんです。それで、自分のことも振り返りながらひとつ思ったのは、表現においては、何を表現したいのかが、準備や創作にとりかかる前からはっきりわかっている場合と、実体はわからないけれどもとにかく何かが自分のなかにあって、準備や創作を始めてみて、最終的に自分が何を表現したかったのかがわかる場合と、その二つがあるのではないかということでした。考えてみれば、表現したいもののビジョンがはっきりしている場合でも、かたちにしていく過程、つまり「いかに」を考えて深めていく過程で、当初想定していたのとは違う表現になった、ということも少なくありませんでした。お二人はこの「何を」と「いかに」の関係については、どのように考えていますか?

 小倉 私としては、最初に何を表現するかが見えていて書く、というのが理想なんですけど、でもどうしてもそれができなくて…(笑)。ずるずるずると書いていって、清書くらいの段階になって(ようやく)、「ああ私こういうことしたかったんだ」と思うことがほとんどです。作曲家には、題名を先に付けられる人と、最後まで書き終わらないと付けられない人とがいると思うんですけど、私は題名を付けるのが一番最後の作業になってしまいます。本当は書く前から明確に見えていた方がいいのかなと思うことがよくあります。

向井 僕は、タイトルを最初につけておいて、ずるずる書き始める…(笑)。タイトルを考えることがめちゃくちゃ好きで。自分はいまこういう作品を書いています、というのが先にあった方が良くて、でもタイトル自体は何を表現したいのか(はっきりとは)わからないようなタイトルにしてある。自分でもまだわからないから。書き足したり書き直したりを繰り返して、全体の三分の二くらいまで書けてから、何がしたかったのかがわかる感じ。でもほんとはその逆がやりたい。書きたいことがまずあってそこに向かって一直線に進んでいくって、なんて素敵なことなんだろうと思うんだけど(笑)、どうしても自分は、「なんだこれ?」というのを掘り進めていくうちにやりたかったことがやっとわかるということばかりかな。

──個人的な感覚、「趣味」を突き詰める

 篠村 作曲家は楽譜に無数を情報を書き込んでいるわけですが、その中間層や下層のほうにある情報──例えば内声に対旋律や主題の断片が隠されているとか──の扱い方として、極端に言うと、何もないかのように通り過ぎる演奏と、すごくそこを浮き彫りにするような演奏とがありますよね。もちろん、演奏は全体を聴かないとどうこう言うことはできませんが、このあたりについては作曲家的にはどうお考えですか?

向井 演奏されたあとの結果の種類は多い方がいいかな。それだけの余地が作品にあったということだから。それに、結構、自分でも知らなかった可能性を、演奏家に発見していただくことってあるから。そこを強調されるとまた別物として感じられて、そういうときは作曲やっててよかったなと思える瞬間でもあるかな。

小倉 演奏が、例えば対旋律を出したことですごく奇抜に聞こえる場合と聞こえない場合があるじゃないですか。それがたぶん、前後のコンテクストによると思うんですけど、その差って言葉で定義するのはすごく難しい…(笑)。その強調した要素に、演奏家のエゴみたいなものが聞こえてしまうと醒めてしまうのかな。その演奏家が本当に聴かせたくて聴いている場合と、「私はこんなこともできるんですよ」みたいに弾いている時と(笑)があると思うんですが、でも場所によってはそういう(後者のような)弾き方が効果的に聞こえるときもある。そこっていうのは前後のコンテクストや演奏される場所や環境にもよる。演奏家の美学とかの問題にもなってくると思います。

篠村 そうですね。演奏家それぞれの美学に関連して二つ言うと、一つは、例えば「理想の音色」というものがありますけど、それは絶対的なひとつのものとしてあると考えるのか、手掛ける個々の作品や作曲家、時代によって変わるものであると考えるのか。いろいろな演奏家の話を聴いていると、前者の考え方の人のほうが多いような気がしますが、論理的には後者の方により説得力があります。これは僕自身も割り切れていない問題ですが、ただ、聴衆として演奏を聴いていて思うのは、作品や作曲家ごとの弾き分けが巧みである演奏より、その演奏家からしか聴けない音を聴けた演奏の方が、やっぱり心動かされてしまうということです。
 もう一つは、こちらの方が小倉さんの問いに直接関わりますが、音楽において、これはいろいろな好みがあっていい、つまり趣味の領域であるというものと、これは音楽の文法のようなものとして絶対に破ってはいけない、つまり絶対的な領域であるというものとがあると思いますが、そこでぶつかるのが、ある要素が、そのどちらに属するのかを判断しているものは一体何なのかという問題です。それさえも結局は個々人の趣味に委ねられるのか、それとも普遍的な価値があって、それによって判断されるべきなのか。いまの音色の話にも通じますが、ここで問われているのは、大袈裟かもしれませんが、最終的に、何か普遍的で絶対的な価値というものがあると信じるのか、すべては相対的なものであると思うのかということではないでしょうか。

小倉 まず音色に関しては、できるだけパーソナルな方がいいと思っていて、それはさっきの素材はできるだけユニークである方がいいということとも通じます。音色が極めてパーソナルであれば、形式とか構成の点で、奇抜なことを狙わなくても個性が出るわけですよね。その音色を持っている、というだけで、その人がその曲を弾く意味が出てくる。もちろん、人間はみな違う個体だから、出てくる音はそれだけで違うというのはそうですけど、それでも、(聴き手が)すごく惹かれるほどパーソナルな音色にまで持っていけるのは強みだと思います。
「普遍的なもの」に関しては、すごく難しい(問題)ですよね。私たちは、例えば古典っていうのはこういうルールがあって、こういうアーティキュレーションをしなくてはいけなくて…ということを教わるわけじゃないですか。私はそういうルールがあるほうが心地いいので、普遍的に守らなければいけない前提があるという考え方は苦ではありません。でも、ある人から見てルールに反する表現があったとしても、別に演奏っていうのはルールに合っているか合っていないかを判断するゲームではないから、難しい。ただ、ルールを知っていた方が、それ「らしく」聞こえるための助けにはなるというのは言えます。

向井 「普遍的に守らなければいけない前提があるという考え方が苦じゃない」というのはすごく共感できるところです。

篠村 やっぱり、クラシックっていう分野の音楽をやっている人っていうのは、そういう人なんじゃないかなと思います(笑)。新しい表現を希求しながらも、先人たちが受け継いできたものに対する強烈な尊敬があるし、普遍的な価値を守っていくことの大切さを知っていますよね。今日、何度かその「文脈」の話になりましたが、何とも言語化するのが難しかったですよね。明確に定義できないけれども、私たちは何となく知っているその領域というのが、「普遍的なもの」なんですね。
 哲学者のカントが、『判断力批判』のなかで、こんなことを言っています。僕たちは何かを「美しい」とか「明るい」だとか言うときに、あまり主語をつけませんよね。つまり、個人的な趣味の判断として「美しい」と言っているにもかかわらず、あたかも普遍的にそうであるかのように話している。これは、全く個人的な感覚のなかに、普遍的なものに繋がるものがある可能性があるということだと思うんですけれど、ここに僕は真理があるように思います。さっきの問いかけでは、敢えて両者を対立させて話しましたけど、本当は、それらはそんなに分かれているものではないのかもしれないと感じているんです。普遍的なものがまずあるのではなくて、まずは個人的なものを突き詰めて、そのなかから普遍的なものが出てくる。
 もっと具体的なことを言えば、やっぱり自分の表現が、普遍的な価値判断によって評価されるより、単純に「あなたの表現が好きです」と言われる方が、嬉しいですからね(笑)。そこに賭けるのが芸術だとも思います。

小倉  個人的なものはいつも真実だと思っていて、普遍的なものはある人(たち)にとっては真実かもしれないけど、そうでない場合もある。普遍的なもので音楽を語ることはできるんだけど、最終的にはやっぱり個々人の感覚に帰結してしまう。私たちはそこはある程度、(受け取る人に)任せることしかできないということでもありますよね。

向井 そういうことだよね。やっぱり、自分の曲が受け入れられなかったときに、それはまあこの人たちとは趣味が違うんだなと思うことしかできない。そうじゃないと悲しいというか、何でこの曲書いたんだろうということになってしまう。そう思うことによって自分が曲を書き続けられるっていうのもあるし。

小倉 うんうん。

向井 普遍的なものに囚われずに、最終的には趣味だもんね、みたいな感じで。だから書き続けられる。この世界には私と趣味が合う人がいるはずで、それだけでも書く希望になるよね。芸術っていうのは最終的にはそういうところに落ち着くのかなと思う。
 でも、自分の音楽を伝える機会というのは増やさないといけない。作曲家の場合、ただ演奏会をやるだけでは来てもらえない。どうやったら自分の曲をたくさんの人に聴いてもらえるか。メディアに出すだけでは、自分の曲を聴いたことがない層には届かない。そのことをいますごく考えています。その層に、もしかしたら自分と趣味の合う人がいるかもしれないから。

篠村 お二人が、そのように考えていながら、普遍的な価値の大切さを説かれてもいることに、もう趣味の感覚が普遍的な価値を内包しているということが表れていると感じました。
 演奏の在り方をめぐってさまざまにお話していただきましたが、それが最終的にこのような大きなテーマに至ったことが、演奏芸術が決して創作芸術より下位にあるものではないことを証明しているのではないでしょうか。ありがとうございました。

向井 すごくすごく楽しかったです。芸術について真摯に考えている人の意見をいただけるのは本当に有り難いことです。

小倉 こういう風に音楽のことを話せるということ自体が幸せなことだなと思いました。ヨーロッパにいると、5年後、いや来年自分や世界がどうなっているか本当にわからないなと身に染みて思うことがあって、そういうなかでは、音楽をやること自体がある種のプロテストなのかもしれません。それが、私たちにいまできる最大限のことかなと思います。

(構成・文)篠村友輝哉

《併せて読みたい》
【「現代音楽」と音楽家のいま、これから】小倉美春×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第4回 前編 https://note.com/shinomuray/n/n4f3e6495e7c0

【「現代音楽」と音楽家のいま、これから】小倉美春×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第4回 後編 https://note.com/shinomuray/n/n288f99e2ce03

【21世紀の音楽、芸術】向井響×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第5回 前編 https://note.com/shinomuray/n/n41c110e2d26d

【21世紀の音楽、芸術】向井響×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第5回 後編https://note.com/shinomuray/n/n64c325a0985f 

小倉美春(おぐら みはる)
東京出身。3歳よりピアノ・ソルフェージュ、17歳より作曲を始める。
第12回現代音楽演奏コンクール”競楽"第2位、第13回オルレアン国際ピアノコンクールファイナリスト(第3位以内入賞)、第81回日本音楽コンクール作曲部門(室内楽曲)入選、第5回シュニトケ国際作曲コンクール第2位、第15回オルレアン国際ピアノコンクール作曲賞及びラジオ・フランスが運営するFrance Musiqueより委嘱を受ける。
日本では北とぴあ国際音楽祭参加公演「2台ピアノの新たな可能性~マントラをめぐって~」をはじめ、コンサートシリーズ~「ピアノのために書く」とは~、シュトックハウゼンピアノ曲I-XI全曲演奏会、新しい耳音楽祭など、ヨーロッパではManifeste音楽祭(パリ)、Klangspuren Schwaz(インスブルック)、Mixtur音楽祭(バルセロナ)、Monopiano音楽祭(ストックホルム)への出演など、国内外で積極的な演奏活動を行う。2019年3月フォントヴロー修道院レジデンスアーティスト。
桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)を経て、桐朋学園大学音楽学部卒業(ピアノ専攻・作曲副専攻)。桐朋学園大学研究科作曲専攻修了。現在、公益財団法人野村財団から助成を得て、フランクフルト音楽・舞台芸術大学修士課程ピアノ専攻にてフローリアン・ヘルシャー氏に師事。今秋より同大学国家演奏家資格に進学予定。これまでにピアノを廻由美子、作曲を石島正博の各氏に師事。
https://miharuogura.mystrikingly.com/ 

向井響(むかい ひびき)
1993年静岡市生まれ。3歳よりピアノと作曲を学ぶ。
2021年第6回マータン・ギヴォル国際作曲コンクール (テルアビブ) 第1位。2020年マリン・ゴレミノフ国際作曲賞(ソフィア)受賞。2019年ORDA-2019作曲部門(アムステルダム)第1位。2018年ストラスブール現代音楽祭(フランス)にて、最優秀賞(グランプリ)(審査員長:フィリップ・マヌリ)。桐朋学園大学在学中の2015年、第84回日本音楽コンクール作曲部門第1位。併せて岩谷(聴衆)賞、明治安田賞、三善賞を受賞。第33回ACL青年作曲賞(マニラ)の日本代表作品に選出され、第1位受賞(日本人として21年ぶり)。第8回ユルゲンソン国際作曲コンクール(モスクワ)ディプロマ入賞。
ハープと電子音響のための「美少女革命」が、ガウデアムス国際現代音楽週間 '18(ユトレヒト)の招待作品に選ばれ欧州デビュー。2019年ウクライナ政府(外務省)委嘱プロジェクト「幽体の鳥」が、ウィーン美術アカデミーにて上演。
桐朋学園大学音楽学部作曲科卒業、同研究科修了。2014-15年、明治安田生命クオリティオブライフ奨学生。2016年よりヤマハ音楽支援制度留学奨学生として、ハーグ王立音楽院ソノロジー研究所修士課程に留学。2019年同大学院を最優等の成績で修了。2020年アントワープ王立音楽大学大学院ポストグラジュエート課程を最高栄誉賞付きで修了。これまでに作曲を大久保みどり、愛澤伯友、石島正博、莱孝之、リチャード・バレット、ウィム・ヘンドリクス、ピアノを稲田礼子、斎木隆の各氏に師事。2019、20年度ローム・ミュージックファンデーション及び、公益財団法人かけはし芸術文化振興財団奨学生。現在、令和3年度文化庁新進芸術家海外研修員(2年)として、ポルトガルに派遣。ポルト大学大学院工学研究科博士(PhD)課程に在籍。

篠村 友輝哉(しのむら ゆきや)
ピアニスト、音楽評論家。桐朋学園大学卒業、同大学大学院音楽研究科修士課程修了。ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に多数出演。桐朋ピアノコンペティション第3位、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞、かさま音楽賞など受賞。
専門のピアノ音楽をはじめとした幅広いジャンルの音楽/演奏評論、音楽エッセイを中心に執筆。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の一年間と2021年下半期の半年間、エッセイ・批評の連載を担当、好評を博した。音楽講座、演奏会企画、コンクール審査など活動は多岐にわたる。エッセイや講座、メディアでは、文学、映画、社会問題などにも積極的に言及している。修士論文はシューベルト。
(公式サイト) https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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