見出し画像

【「現代音楽」と音楽家のいま、これから】小倉美春×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第4回 後編

(前編はこちら)

ーー分析しきれない何かがあるか

小倉 理屈で説明できない何かがあるか、分析しきれないところがあるかということが大事です。私はとある先生に、小倉さんの曲は分析できてしまう、言葉で説明できてしまうと言われたことがあって、それがヨーロッパの今の主流のスタイルだということも理解できるんだけど、分析できない、言葉にできないところを信じてあげてもいいんじゃないかと。私自身一聴衆として何か音楽を聴く際には、かなり分析的・批判的になってしまうのですが、そうさせてくれない曲や演奏に出会えると嬉しくなります。
 
篠村 それはよくわかります。なんであんな音が出せるのか、どうしてそんな音が書けるのかということは、もうその人の「人間」がそうだからとしか言いようがない。僕は、10代の後半までのんびりと音楽をやっていたこともあってか、音楽を聴いているときにそれほど分析的に聴いていなくてーーそれでも専門的にやっていない人よりはそう聴いているのだろうけどーー、逆に、あまり感じるものがない音楽・演奏を聴いていると、それこそ分析的・批判的に聴いてしまう。演奏にせよ作品にせよ、言葉で言い尽くせるのであれば音楽にする必要がない。でも、それを承知の上で言葉にしていく営みも面白いし、受けた感銘がより深まるというのもあって、音楽や演奏について文章を書いています。
 音楽が音楽である所以は、当たり前だけど音を使っているからであって、だから結局、音そのものにこそ、音楽家の個性は凝縮されるのではと感じています。

小倉 私でない誰かが書ける曲であれば私が書く必要がないということを意識しています。音の魅力というのには2つあって、まずは音の選び方、それが作曲家の個性に繋がってくると思うのですが、いろいろな音の組み合わせがすでに試されているなかで、じゃあ自分はどう選ぶのか。ドビュッシーなんかは顕著ですが、どの瞬間を切り取ってもドビュッシーじゃないですか。

篠村 そうだね。

小倉 そういう音を書けるのか。すごく難しいところです。それから、もう一つは、楽音でない音の扱い方ですね。演奏者との関係性が試されるというか、演奏者というのは、楽音を弾くことを学んできているので、そこに全く別のことをさせるということが加わるわけです。そのことにはリスクがありますから、そこまでしてもその音が欲しいのかということを考えます。ただ珍しい音が書きたいだけでは、それはすぐにわかってしまいますし、私自身も慎重です。

篠村 結局、さっきも話した、その音を書く内的必然性があったのかというところだよね。それがないと、その音が空虚に響いてしまう。
 音色の探求と、構成していくことの両立ってすごく頭を悩ませると思うんですが、例えば文章で言えば、言葉としては美しくても、その文章の中にそぐわない言葉というものがある。それは音楽でも同じで、すごくいい音でも、その作品のなかにあるべきではない音というものがあると思う。そこの見分け、聴き分けがありますよね。

小倉 例えば、1ついい音を思いついて、その音の方から作品を創造する、その音をどうしたら一番魅力的に聴かせられるかという方向と、流れのなかで思いついて、どうコンテクストのなかにその音を置くかという方向があると思います。石島先生(*石島正博。作曲家)はいつも、「三善先生(*三善晃。作曲家)はよく、発想は大胆に、定着はものすごく慎重にと仰っていた」と繰り返されます。それから、いくつかのいい音や展開を思いついたとして、それをすべて使うのか、それもまた難しい。(そのなかの)1つだけでも1曲書けてしまうかもしれない。

篠村 文章であれば、書いていく流れのなかで、言いたいことをどの言葉で書くかという選別があるわけだけど、作曲の場合はまず音が浮かんでくるという場合がある、ということだね。

ーー音楽家のこれから

篠村 今後の音楽のことを考えるうえで、やはりAIの問題を考えることは避けられないと思います。AIは、今のところ、「誰々風の」作品を作ることはできて、実際にそれをAIが作ったと知らずに聴いて感動したという人もいる。いずれ、AIが自力で作曲できるようになった場合に、じゃあ人間が書く意味とは一体何なのか。ほとんどの作曲家は真剣に考えていると思います。自分は正直、あまりAIのことを知らなかったときは、「AIの音楽で心が動くはずがない」と思っていたし、思いたくないという部分もあったのだけど、AIについて理解を深めるほどに、必ずしも人間が生み出したものだけが人間の感動に作用するとは言い切れない現実があるということを知って。

小倉 AIのコンポジションについて詳しいわけではないのですが、昨日、ある方と、こんなときにAIはマスクも作れないのね、と(オンラインで)話していました。人間のクリエイティビティをもっと信じていいのよねと。人間は布があれば、その手でマスクを作り出せる。たとえば、既存のスタイルで何か求められるような、消費される音楽、産業音楽はAIがやるようになるのかもしれないなと思うんですけど、人間の創造性を脅かすようなものにはならないと思っていいと感じています。創作って、すごくパーソナルなものから始まると思うんですけど、それはAIにも予測できないし、私自身も、この先どんなパーソナリティになるかわからない。聴く人が感動するかどうかはまた別のファクターですが、人間の創造性、歌う、踊るという営みは根源的なところであって、失われないと思うし、そうであってほしい。逆に、AIの技術が高くなることによって、人間の創作意欲が失われてしまわないか、ということの方が心配です。

篠村 人間が創造する意味というより、私が創造する意味ということだね。仮にAIが人間並みに、あるいは人間以上に優れたものを生み出したとしても、私が生み出したものはその人にしかできない。それから、創る、表現するということって、誰よりも自分自身の救済になるじゃない? 

小倉 そうですね。

篠村 やっぱり表現することで救われる、自分の抱えている問題を、表現のレベルに昇華していくことで、それを克服しているという部分が、芸術をやる人にはある。そういうものを抱えている人は、やっぱり創り続けるのだと思う。

小倉 やっぱり衝動的に、書かなきゃ、弾かなきゃという思いがあるので、そういう衝動があったときに、じゃあどういう技術が必要なのか、という話になるんですよね。

篠村 小倉さんは、コンテンポラリーが今直面している問題は何だと思いますか?

小倉 いま本当に、作曲するにしてもいろいろな方がいて、主流がなくなっている時代です。逆に言えば、これからどうなっていくのかが楽しみでもありますが、やっぱり調性を聴きなれている人たちは、幼いころから調性が普通だという風に思わされている。そういう人たちを対象に、調性的に、わかりやすく書くという動きもあるし、それで聴衆の耳を掴むことに成功する場合もあるし、作曲する上での選択肢がだくさんあって、何が正解なのか、難しいところですね。創作を発表する場が残っていくかということの危機感もあります。聴きたいと言ってくれる人が0なのに、創作をしたいという人はいるという状況がきてしまうのかもしれない。だから弾いていかないとという意識があります。私にとって、弾くという行為には、作曲者や作品のためという面があります。ドイツに渡ってから、面と向かって、やっぱり古典の方が聴きやすいのに、どうしてわざわざ現代を演奏会で弾くのかわからないと言われることもありましたし、どの場所に行ってもそのような方が一定数いらっしゃることに目を背けてはならないと感じています。調性の方がいいというのは刷り込みによってそう思っているわけで、何も音楽を聴いたことがない人に現代と古典を聴かせたときに、どんな反応になるのか。積み重ねや刷り込みの弊害もありますが、一方で、古典を本当にわかっていれば、現代も楽しめるという面もあります。

篠村 演奏の場合は、すごく斬新な解釈や先鋭的な解釈を聴かせる演奏が熱狂的に受け入れられるのに、作品になったとたんに、つまり「現代音楽」に関しては忌避してしまうという人が多いのはなぜなんだろうと、最近よく考えています。僕も刷り込みがある人間だから、古典の方が聴きやすいし、どうしても演奏する作品もシェーンベルクとかスクリャービンの後期とかまで、近代どまりになってしまうけど、現代の作品にも共感できる作品や作曲者もいる。きっかけ次第だとも思います。
 ただ、「聴きたいと言ってくれる人が0…」の話に関わることだと、さっきも名前を出したハラリは、生命科学で能力をアップデートした一部の富裕層が世界を支配する「テクノ人間至上主義」、あるいはAIとビッグデータが世界を支配する「データ至上主義」の時代が来るという悲観的な予測をしていて、そうなると、テクノ人間やAIにとって価値があるものを人間は理解できず、人間が感動できるものにテクノ人間あるいはAIは価値を見なくなる、というようなことを言っています。これはもはや、音楽どころか人類全体が直面している問題だけど、ハラリ自身、「予測が外れたなら、予測した甲斐があったものだ」と言っているように、こうしたディストピアが訪れないようにするために、芸術家も常に現実と未来を見て、思考し続けなければならないと思います。

小倉 今回の新型コロナウイルス騒動の後で、音楽の在り方、音楽の書き方というのは変わると感じています。このことを背負わずに書くのは不可能でしょうし、書くことが自分自身の救いになる面もあります。石島先生が3.11、三善先生が第2次世界大戦のことを背負って作曲されているという感覚は、今までは想像するだけでしたが、それが少し自分でも具体的にわかるようになりました。

篠村 危機の状況におかれたときに、そのインパクトのあとで表現がどうなるかというのは、考えなきゃいけないし、考えさせられるもの。コンサートのあり方も変わってしまうかもしれないという状況があるなかで、小倉さんが、音楽を届けるということについて、どうすればいいのかと思い悩んでいるのは、誠実だからだと思います。急いで新しいことをやるのではなく、いったんそれを自分の中で引き受けて、じっくり考えていくという時間は必要。古井由吉さん(*小説家。今年2月にご逝去された)が、3.11後の文学についての話のなかで、「呆然とするのが当たり前なのです。呆然とする時間がたっぷりあった方がいい。ところが、今はそういう暇(いとま)を与えない世の中でしょ」と仰っていたけれど、本当にそう思う。

小倉 今回のコロナのことですごく思ったのは、音楽家ってもっと社会にどうかかわっていくのかということを考えないといけないと思いました。もっと社会や国を構成している一員としての音楽家として行動していかないといけないと考えています。

篠村 これがきっかけで、例えば政権批判なんかをする音楽家も多く出てきたけど、本当は今回のことがある前からそうあるべきだったんだよね。僕は、音楽家はもっと社会に目を向けるべきだということをずっと言ってきた。音楽家だけ社会と無関係に音楽だけやっていればいいというのでは通用しない。音楽って確かに一瞬、非日常を体験させてくれるものだけれど、どこかで現実認識が表現の背景にないと、結局非日常を体験しただけで終わってしまう。現実の生き方にも影響を与えるのが本物の表現。日ごろから今何が起きているのかを感じ取り、それに反応することは大切です。

小倉 楽譜を読む力、楽器を弾く力があるだけで素晴らしいんだけど、それがこの状況で何になるかというと…ということも考えてしまいます。

篠村 ただ、音楽にしか使えないような能力でも、それを応用するという方向もあると思う。もちろん、音楽以外の何かのために音楽をやっているわけではないけれど、日々音楽に向き合うなかで磨かれてきた潜在的な力というのがあると思う。不安や危機を感じ取る感性も研ぎ澄まされているはず。
 純粋に音楽の話に始まって、最後に深刻だけどとても重要な話ができてよかったです。ありがとうございました。

小倉 嬉しい時間でした。ありがとうございました。    

(構成・文:篠村友輝哉)

*次回は作曲家の向井響さん

〈小倉さんの今後の出演情報〉(4月現在の予定)
・2020年6月12日(金)第42回桐朋学園作曲作品展@東京オペラシティリサイタルホール
・2020年12月13日(日)7人の作曲家展vol.4 “オトリウム”@トーキョーコンサーツ・ラボ
・2020年12月26日(土)小倉美春コンサートシリーズ~「ピアノのために書く」とは~vol.2 ハインツ・ホリガー『パルティータ』をめぐって@トーキョーコンサーツ・ラボ
・2021年3月14日(日)シュトックハウゼンピアノ曲I-XI全曲演奏会@トーキョーコンサーツ・ラボ

©Pino Montisci

小倉美春(おぐら みはる)
東京出身。3歳よりピアノ・ソルフェージュ、17歳より作曲を始める。 
2016年第12回現代音楽演奏コンクール《競楽XII》第2位。2018年現代音楽の登竜門第13回オルレアン国際ピアノコンクール第3位以内入賞。自作自演に対する作曲賞を含む7つの賞を受賞。
同年北とぴあ国際音楽祭参加公演として「2台ピアノの新たな可能性~マントラをめぐって~」を企画、演奏し、好評を得る。
2019年3月仏フォントヴロー修道院レジデンスアーティスト。同年第81回日本音楽コンクール作曲部門(室内楽曲)入選。
フランス(ブッフ・デュ・ノール劇場、ロワイヨモン修道院等)やドイツ(アルテ・オーパー、ダルムシュタット等)、イタリア(ミラノ・フィレンツェ)各地で演奏するなど、現代音楽を中心として国内外で活動を行う。
桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)を経て、2019年桐朋学園大学音楽学部ピアノ専攻・作曲副専攻)を卒業。高校卒業演奏会、第91・102回室内楽演奏会、第38・40・41回作曲作品展、ピアノ専攻卒業演奏会、大学卒業演奏会に選抜される。平成30年度青山音楽財団奨学生。
現在、公益財団法人野村財団より助成を受け、フランクフルト音楽・舞台芸術大学修士課程ピアノ専攻、及び桐朋学園大学研究科作曲専攻在籍。ピアノをフローリアン・ヘルシャー、廻由美子、作曲を石島正博の各氏に師事。
これまでに、ピエール=ロラン・エマール、タマラ・ステファノヴィチ、ウェリ・ヴィゲット、ベンヤミン・コブラー、エレン・コーヴァー、セバスチャン・ヴィシャール、ニコラス・ホッジズ各氏のレッスンを受ける。
miharuogura.strikingly.com

篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?