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暗闇に手を伸ばす

noteのトップを開くといろんな人がいろんな記事を書いている。私は「さまざまな他人」にはそこまで興味がないので片っ端から読んでいくということはしないのだが、その数や多様な記事というのは一覧だけでもまあわかる。

そもそも自分は、人は、なんで声を発したがるのか? Twitterもnoteもその他ソーシャルツールも同じだが、日々、大勢の人が意味のあることや意味のないことを呟き、ぼやき、時には強い口調で、いずれにせよ言葉の形で書いている。

言葉で書くということは人に伝えようという意思があるということだ。感情や想いというのは言葉の形をしていない(と私は思う)。言葉にする際には「翻訳」に似た作業が必要になる。その時点で感情とアウトプットの間にはワンテンポの拍が入り、少なからずクールダウンされているはずである。つまり「過去」だ。私たちはいつだって「過去」について書いている。未来への意思表明ですらも「そう思った」という「過去」であろう。

まあ、過去がどうかなんてことはどうでもいい。問題は言葉のほうだ。言葉にする時点で生の感情や思いとはズレが多少は生じるはずだ。それのズレに対して許せないという状態が「うまく言えない」というやつだ。確かに感情をうまく言葉にできるとわかったような気持ちになってスッキリする。それだって100じゃない。比較的うまくできたというだけで常に妥協が入っているはずだ。

自分の中ですらこうなのだから他人とお互いの気持ちをすり合わせることの難しさって言ったらない。2人いれば難易度は単純に倍増する。おそらくそれは誤解の積み重ねでできているといっても過言ではない。確実性がない。見えないものにアプローチする、いってみれば暗闇の中で手を伸ばすようなものだ。

それでも書いて、人や自分を分かろうとするのはなぜかというと「人は前提的に心細い」からだろう。寂しい、とまでいうとニュアンスが変わるが、皆多かれ少なかれ心細い。自分がいる世界を確かめたい。手で触れたい。声をかけたら声を返してもらいたい。そうしたシンプルで原初的な欲求が人に何かを書かせるのだろう。それは作品の形をとった表現も根本は同じことだ。評価を得るだのバズるだのというのはその派生に過ぎない。

ブログというものが世に流行り、自分もやっていたのだが、ブログの面白いのは「誰ともなくに書いている」というところだった。メールだったら相手がある。手紙もそうだ。会話や電話も相手に話す。特定の誰かに向けた言葉を紡ぐ。だけどブログはそうじゃなかった。伝える相手が虚空なのだ。それは時折り頭の中で想定した誰かになったり自分自身になったりする。だがほとんどは「不特定多数」に向けて書いていたはずだ。「読者」と言ってもいい。誰が読んでいるかわからないのにだ。その自意識の置きどころが面白かった。誰宛でもないのに、誰かに向けて書いているのだ。それは今でも変わらない。Twitterもnoteも同じだ。私たちは書くことで手を伸ばす。その指先が何かに触れる。あるいは届かないこともある。自分の周りに誰もいないような感覚になる。でも1ミリ先に何かあるかもしれない。返事が返ってくるかもしれない。本意であれ不本意であれ、その営み自体の本質は、きっと死ぬまで変わらない。

やぶさかではありません!