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「祈る」という言葉

 キリスト教の洗礼を受けてから、「祈る」という言葉について慎重に取り扱うようになった。

 ノンクリスチャンだったころは、仕事のメールや挨拶状で、最後に「ご活躍をお祈りします」などと、わりと気軽に書いていた。けれども受洗後は、そう書くことにやや抵抗を感じるというか、「私、ほんとうにその人のために祈るのかな」と、ちょっと悩むようになった。

 それでも、クリスチャン同士で交わすハガキや、親しい人への便りでは、「主の恵みが豊かにそそがれますようお祈りします」などと書いていた。
 しかしあるとき、来住英俊神父が何かの著書で、クリスチャンなら、「お祈りします」と言ったらほんとうに心をこめて祈らなければいけない、だから軽々しく「祈っています」という言葉を用いるするべきではないという主旨のことを書かれていて、はっとした。

 私はプロテスタント(改革派)の信徒だけれど、超教派で行動しているし、カトリックの神父の本やTwitterなどの発信をよく拝見している。
 なかでも、来住神父の本は、キリスト教の知識面に偏らず、「信仰するとはどういうことか」をわかりやすく言葉にしてくれているので、好んで読んでいる。

 いまから少し前の話だけれど、ご本人が何かの媒体で、女子パウロ会の『目からウロコ』のシリーズでは、クリスチャンの祈り方について詳しく書いていると語っていたのを目にして、同シリーズの『とりなしの祈り』を読んでみた。

 上記↑の女子パウロ会のサイトで目次を見ることができる。「身近な人のために祈る」「世界の出来事のために祈る」などと章立てされていて、プロテスタントの私も「祈る」という行為や姿勢について自分を見直し、学ぶことができた。
 ↓ちなみにamazonでも手に入る。

 この本を読んでから、メールやハガキで「祈る」という言葉をほとんど使わなくなった。使うときは、そのために祈る時間をもうけるようにしている。

 また、メールやハガキとは関係なしに、誰かのために祈ったとき、それを「あなたのために祈ったよ」とわざわざ相手に伝えなくてもいいのではないかと思うようになった。

 日常のお祈りのなかで、誰かのために祈ることはしばしばある。お世話になった人とか、心配な人とかのことを。でも私の場合、考えてみればたいていは、相手に祈ったことを伝えていない。
 なぜだろう……そもそも直接伝えられる機会があるのなら、具体的な励ましやエールを伝えたほうがいいと思っているし、誰かのことを祈っているとはいえ、祈りは私と神さまとの間の個人的なことだからだろうか。

 でもごくまれに、相手に伝えることもある。「私も祈るよ」と伝えることが、相手の力になるだろう、と思われる場合だ。

 コロナで世界じゅうがたいへんないま、バチカンでは教皇フランシスコが、聖母マリアにご加護を求める祈りをささげてくださったという。こういうニュースには、励まされる。

 なぜか個別のツイートをうまく埋め込みできないので、教皇フランシスコ(邦訳)TwitterアカウントのTOPのリンクを貼っておきます↓。



◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、Angie-BXLさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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