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「祈り」の結果にはこだわらない

 クリスチャンということもあり、私は日々いろいろなことを神さまに祈りながら生きている。祈りは暮らしの一部といっていい。でも、その祈りが「叶ったかどうか」ということは、ほとんど意識していない。

 キリスト教の世界でときおり耳にする、「自分の祈りが聞かれない」という悩みも、私の場合は抱いたことがない。
 私にとって祈りは、いつもそばにいてくれるイエスさまとの親しい会話みたいなものだ。同時に、そのイエスさまを通して天の神さまに届ける言葉(思い)でもある。
 だから最後は決まって「この祈りをイエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン」と結ぶ。

 私はプロテスタント(改革派)の教会に所属している。そのせいか、神さまと自分は一対一の関係にある、という考えが強い。イエスさまも、マンツーマンでひとりひとりのそばにいてくださると思っている。
 それが私にとってのインマヌエル、「主はともにおられる」という感覚だ。
 祈りはまず、すぐそばにいるイエスさまに一対一で聞いてもらう(逆に言えば、だから必ず聞いてくれている)。そして、三位一体のひとつであるイエス・キリストを通して、その祈りを天に届ける。だから、天の神さまにも必ず聞こえる、と考える。まあ、たくさんの人の祈りがあって、神さまは忙しいだろうけれども。

 そもそも、キリスト教の神は全知全能なのだから、私が何を思い、何を望んでいるかなど、こちらからわざわざ言わなくてもお見通しだ。
 むしろ自分の思いや、望み、気持ちをわかっていないのは、私自身のほうだといえる。その意味で、私には祈りが必要だ。
 自分の感情や、考えていることを赤裸々に神さまに打ち明けて、どうしたいのか言い、どうすればいいかを問いかける。胸の内で「思う」だけではなく、実際に声に出して祈る。声に出すためには、きちんと言葉にしなければならないから、自然と思考が整理される。

 その過程で、思いもかけない言葉が出てくることがある。「気づいていなかったけど、私、こんな気持ちだったんだなあ」とか、「実はこんなふうに考えていたのか」とか。
 そうするうちに、「やっぱりこう考えるほうがいいのかな」「何もできないと思っていたけど、これくらいならやってみようかな」「ぐずぐずしてないで、すっぱりやめよう」「これはもう自分ではどうしようもないから、神さまにあずけて、私は休もう」などと、次の一歩をどうするかが見えてくることもある。

 私にとって、「祈り」で大切なのは、そうしたプロセスだ。そうやって、イエスさま=神さまと一緒に、一歩ずつ進んだり休んだりしながら生きていく。対話をしていること=プロセス自体に意義があるので、願いが叶ったかどうかという意味での結果にはこだわらない。
 物事がどう運ぶかというようなことは、神さまの領域だ。神さまは、人間の願いをかなえる便利屋ではないのだし。

 旧約聖書の詩編に、こんな聖句がある。

主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名(みな)にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。(詩編23:2-3 新共同訳)

 私にはこれでじゅうぶんだ。というか、これ以上に叶えてほしい望みはない。そして、すでに受洗してキリスト者として生きているということは、これはもう叶っている前提だ。

 そういうわけで、私はしばしばイエスさま=神さまに弱音を吐いて休ませてもらい、迷ったときや悩んだときはどうしたらいいかを問いかけ、示された道を進んでいると思うときでも「これでいいですか。どうかみ心に適(かな)ってうまくいきますように。そうでないときは教えてください」と祈る。
 と、こう書くとなんだかきれいだけれど、実際は、荒々しい感情や情けない部分もすべて差し出し、どうぞこれがいまの私です、と、さらけ出す感じなので、全然きれいじゃない。一対一じゃないと、とてもできない(笑)。
 だからこそ、神さまと向き合うときは、優等生になろうとしないよう心掛けている。

 不思議なもので、ノンクリスチャンだったころよりも、こうしてある意味での采配を天にゆだねて生きるほうが、私は自分を大切にできるし、他の人に振り回されずに、主体性をもって人生に取り組むことができている。



◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、Angie-BXLさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

↓「信じ方は人それぞれ」について、こちらの記事もどうぞご覧ください。


 

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