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癒やされたい、という気持ち

 こんなにも私は癒やされたいと願っていた。そんな自分の気持ちに、最近ようやく気づいてあげることができました。
 新鮮な驚きがありましたが、そういえばずっと前から知っていたことだったような気もします。「ひとまず横に置いておこう」と視界の隅に片付けて、目の前の仕事や生活のあれこれに立ち向かうのが正しい生き方だと思っていたのかもしれません。
 ほうっておいてごめんね。
 自分自身にあやまりたくなりました。

 ある意味では、「けして癒やされることのない痛みなんだろう」と勝手に思って、あきらめていた部分もあるのです。
 たとえば幼少期の親との関係によって刷り込まれている認知とか。
 これまでは「認知のズレは解消できないけれど、それに基づいて行動してしまわないように、常に自分を監視して言動を修正しながら生きていれば大丈夫」と思っていました。でも、それはとても疲れます。

 もう疲れちゃったよ。
 頑張れないよ。
 これ以上できないよ。
 そんなふうに泣いている自分がいたんだなあ、いや、いたよね、ずっとずっと昔から。ほうっておいてごめんね、と思ったのでした。

 この人生で、私は何を求めているのだろう? という、そもそもの地点に立ち返ったとき、見えてきたものがあります。
 仕事を頑張りたいとか、社会で認められたいとか、安らげる家庭がほしいとか、いろいろ求めてきたけれど、それらの根底にあったのは、「私は癒やされたい」という願いでした。ひるがえって、「私は癒やしたい」ということでもあるのだろうと思います。

 自分自身を癒やし、癒やされていく。この先の人生は、それがテーマになるのでしょう。そんなふうに思ったのをきっかけに、新しいマガジンをつくりました。

 私自身が自分を癒やしたり、癒やされたりしていく中で思ったことや感じたことを書いた記事をまとめていきます。読んでいただくことによって、誰かの心にほんのり光がともることになったらうれしい。そんな気持ちで続けていくつもりです。

◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから
sinoayakouriさんの作品を使わせていただきました。
ありがとうございます。

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