「神さま、なぜ?」と、祈っていい
イエス・キリストは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。日本でもわりと知られているエピソードだと思います。新約聖書の福音書、マルコ15:34とマタイ27:46にあるセリフです。(新共同訳)
この部分について、キリスト教のなかでもさまざまな解釈が語られていますし、信じ方は人それぞれだと思います。
私自身は昨年、カトリックの片柳弘史神父の講演で聞いた話が、とてもしっくりくるものでした。
片柳神父は、「神に見捨てられる苦しみを、イエスさまは味わった。まさに、人間の苦しみを味わい尽くすというイエスさまの使命が完成されたひとことといえる。そしてこの姿は、人間が苦しみを乗り越えていくときの究極の模範だ」と説いていました。
「このひとことがなければ、キリスト教は軽くなってしまう」とも。私はその言葉に、深く同意しました。
私自身もこれまでに、ひとりでは抱えきれないと感じる苦難のなかで、「神さま、どうしてですか。私にどうしろとおっしゃっているのですか。ここまで頑張ってきたけど、もう無理かもしれません。これ以上はとても頑張れない、期待に応えられなくてごめんなさい。私はどうすればいいですか。どうか教えてください」と祈ったことがあります。
ひとりの部屋で、声に出して、祈ったというより、訴えたといったほうがいいかもしれません。
↓こちらの記事にもすこし書いています。
前述の片柳神父の話を聞いたとき、「そういう祈り方をしてもいい」と肯定してもらえたようで、気持ちが楽になりました。
人生では、どうしようもない困難や、納得のいかない苦しみに見舞われることがあります。そんなとき、
「神さま、どうして私に、こんな苦しみを与えるのですか」
そう祈ってもいいのだと、片柳神父は話していました。
その問いかけの根底には、「神さまならそのわけを知っている。だから教えてほしい」という、神さまへの信頼があるからです。
すくなくとも、家族や周りの人に当たり散らしたり、自虐的に行動したりするよりは、神さまに直接問いかけるほうがいいだろうと、私は思っています。
なぜ、どうして、という問いかけが湧き出てくるのは、あきらめていない、どうにかしたい、という気持ちがあるからこそ。
一対一の関係で、神さまに問いかけているうちに、自分の気持ちが見えてきて、状況が整理できる、気分がすこし落ち着く、ということもあるでしょう。
そして、その先に「どうすればいいですか」「何をしたらいいですか」という問いかけが生まれてきたら、それはもう、神さまと一緒に、能動的に物事に取り組もうとしている、その一歩を踏み出していることになると思うのです。
ちなみに片柳神父は、若いときにマザー・テレサのもとでボランティア活動をされ、マザーのすすめで司祭になる決意をされた人。Twitterではかわいい小鳥や花の写真と、心温まる言葉や、ひとことのお祈りを毎日アップされています。私も日々拝見し、心を和ませてもらっています。
↓ご参考までに、そのアカウントのTOPのリンクを貼っておきます。
◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、Angie-BXLさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
↓昨年の片柳神父の講演会についての記事はこちらです。
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