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私にとってのクリスマスの意味

 クリスマスが好きだ。まだクリスチャンではなかった、子どものころから好きだった。
 雪国で育ったせいもある。北海道の冬は、夜が長くてすごく寒い。雪に閉ざされた暮らしのなか、暗い気分になりがちだった私にとって、クリスマスツリーのキラキラは、心に灯りをともしてくれる数少ないもののひとつだった。

 一足飛びに救いとか、そんな大げさなものではない。クリスマスの光は、「きっと未来に〝よいこと〟があるよ」とささやきかけてくるような、希望の予感を秘めていた。おかげで私は、つらい状況にあっても、明日への期待を抱くことができた。
 おそらく、クリスマスの原型といわれる冬至祭も、そんな気持ちのものだったんじゃないかなあと想像している。

 多くの人に知られているとおり、聖書には、イエス・キリストの誕生日は記されていない。事実としていつなのかはわからないので、12月25日に祝いましょうとキリスト教会が決めた。それが、古くから行われていた冬至祭などの行事と溶け合い、今のようなクリスマスになったといわれる。

 イエスさまのほんとうの誕生日がいつなのか、私自身はあまり興味がない。何月何日に生まれたとしても、イエスさまがしてくださったことの価値は変わらないと思うからだ。
 でも、降誕を祝う日が決まっているのは、うれしい。
 その日は世界中の人と一緒に祝えるし、年に一度あらためて、イエスさまがこの世に来てくださったことの意味と、喜び、それへの感謝をかみしめることができる。

 しかも12月の下旬というのは、なおうれしい。故郷の札幌では、毎年ホワイトクリスマスだった。
 静かな雪の夜、凍てつくような寒さのもとで、未来に小さな期待をする。そこで一年をふり返り、翌年の生き方を考える。それは静謐な時間だった。そんな時間を持てたのは、クリスマスが年末に、日本では冬にあるからこそで、幸いだったと思う。

 今は横浜に住んでいて、クリスマスに雪は積もらない。けれどもこの季節には、子どものころのホワイトクリスマスが思い出され、心に静謐な時間が流れる。それは今も大切な時間だ。 

 ノンクリスチャンの多い日本でも、12月になればクリスマスに関連して、キリスト教について説明している文面を目にする機会が増える。ありがたいと感じる一方、そうした記事を読んでいて、信仰の本質は、もっとシンプルなところにあるんじゃないかなあと思うこともある。

 たとえば、私はイエスさまが大好きだ。とても尊敬している。だから、クリスマスは喜ばしい。

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