awano.│自主練note

まだ海のものとも山のものともつかない。

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記事一覧

2023/1/6

きのうのにっき しゅっきん、まんなかの日。 お金を好きになればお金にも好かれる……? 月がどんどんふとっていく。 あしたのにっき じゅんびばんたん。

2023/1/4

きのうのにっき 日記をつけ忘れた。二日坊主… 線路のむこうの神社に、ひっこしてきて初めてあいさつに行った。 あしたのにっき 本庁舎2日目。 すこしずつずれていきな…

2023/1/2

きのうのにっき としがあけた。 あいにいくひとがいるのはいい。 でも、そのうちみんないなくなってしまう。 あいにいくひともいなくなるし、 あいにきてくれるひともいな…

2023/1/1

きのうのにっき しごとおさめだった やることがあって仲間といられるから、仕事がある年末もいいかも? 学生バイトくんのマスクとった顔をはじめて見た あしたのにっき …

詩人という人間が人を好きになり得るはずがない──萩原朔実さん

たくさん歌ってたくさん聴いて練習して練習して収録して収録し直して手直しして世にだす。たくさん描いて描いて描き直してまだ描いて、描いて描いて世にだす。練習して練習して、試合に臨む。
だから全然書いても読んでもいない私のこんなぽっと吐いた言葉なんて、誰にでも、バレてしまうんだろうな。

今日は、永遠に別れるということは永遠にいっしょにいられるということと変わらないんだ、と思ってちょっとだけ安心した。
誰しも一度は愛する人の死をねがう。と言ったのは、異邦人のムルソーだったろうか。

小説は伝統工芸へ。コンテンツとしての〈小説〉再考

「小説はこれからキモノになってしまうのか?」 かつて日用品だったモノが、時代が移るにつれて素材や製造方法、さらには需要そのものに生じる変化によって、「伝統工芸品…

「女性同士」「男性同士」だと伝わらない。「同士」では、甘い。
「男女間」という言葉にあるような隔たりと緊張がそこにもあるはずで、だから「女性間の」「男性間の」と言いたくなる。
女性間の恋愛。男性間の親密な感情。
同性ではあっても、そういう時のふたりは同士ではない、気がする。

好きな文章だけを書こうとしたら、やっぱりだめなのかもしれない。書けたものが嫌いでも、下手でも、書いて書き捨てて、何がよく書けたか、何がうまく書けなかったか、削り出していかないとだめなのかもしれない。

本を読んでいて、線を引いたり何か書き込みをすることがどうしてもできないのは、日本の書籍の紙質や製本、つまり全体の品質というものが、やたらと〈潔癖〉に出来ているためである、と仮定してみる。再び本を手に取る時、過去の自分が引いた強調線は、著しく今の私の思考を妨げる。

その欲求と衝動は、すべての人が必要とするものではなく、しかしある種の人はそれに囚われずにはいられない。
人の営みのあるところ、決して根絶されることはなく、今この瞬間も地上に生み出され続けている。
必要としない人にはわからない。必要とする人にとっては必要以上のものである。

にんじんが好物、という人を納得させかつ新鮮なおどろきと楽しみをもたらす一皿を提供するのが二次創作のシェフ、一見さんを初めて食べるにんじんという野菜のファンにしてしまうのが一次創作の三ツ星シェフ。

視野の狭い人は強い。かといって、彼らに勝つために視野を狭くしてはいけない。広い視野に裏打ちされた強さを獲得するのは、生易しいことではない。けれど隙のない広い視野を獲得できた時、そのための努力に裏打ちされて、本当の強さはその人にこそある。

センスがあっても才能はない人。才能はあってもセンスがない人。
天才は、センスも才能もある人。
鬼才は、突出したセンスに才能が伴っている人。
奇才は、突出したセンスに才能がさほど伴わない人。
秀才は才能と、一筋通ったセンス。
センスと才能の違いとは?
才について語るのは、凡人。

文章を書くことに頭を悩ませて生きていたい。それが私の、究極のぜいたくかもしれない。

2023/1/6

きのうのにっき

しゅっきん、まんなかの日。
お金を好きになればお金にも好かれる……?
月がどんどんふとっていく。

あしたのにっき

じゅんびばんたん。

2023/1/4

きのうのにっき

日記をつけ忘れた。二日坊主…
線路のむこうの神社に、ひっこしてきて初めてあいさつに行った。

あしたのにっき

本庁舎2日目。
すこしずつずれていきながら、つながってもいる。
春からはどこへ行こうか。

2023/1/2

きのうのにっき

としがあけた。
あいにいくひとがいるのはいい。
でも、そのうちみんないなくなってしまう。
あいにいくひともいなくなるし、
あいにきてくれるひともいなくなる。
ゆうやけがきれいだった。
ほしもきれいだった。

あしたのにっき

このあたりの氏神様をさがしにいく。
あしたはいもうとがいてくれる。

2023/1/1

きのうのにっき

しごとおさめだった
やることがあって仲間といられるから、仕事がある年末もいいかも?
学生バイトくんのマスクとった顔をはじめて見た

あしたのにっき

ひどくよていがない

詩人という人間が人を好きになり得るはずがない──萩原朔実さん

たくさん歌ってたくさん聴いて練習して練習して収録して収録し直して手直しして世にだす。たくさん描いて描いて描き直してまだ描いて、描いて描いて世にだす。練習して練習して、試合に臨む。
だから全然書いても読んでもいない私のこんなぽっと吐いた言葉なんて、誰にでも、バレてしまうんだろうな。

今日は、永遠に別れるということは永遠にいっしょにいられるということと変わらないんだ、と思ってちょっとだけ安心した。
誰しも一度は愛する人の死をねがう。と言ったのは、異邦人のムルソーだったろうか。

小説は伝統工芸へ。コンテンツとしての〈小説〉再考

小説は伝統工芸へ。コンテンツとしての〈小説〉再考

「小説はこれからキモノになってしまうのか?」

かつて日用品だったモノが、時代が移るにつれて素材や製造方法、さらには需要そのものに生じる変化によって、「伝統工芸品」という位置付けとしてのみ生き残っている。あるいは淘汰され、継承者が途絶えて、あらたに生産されなくなってしまう。

他人事ではなくて、もう「小説」というコンテンツが、そういうものになりつつある。
紙の本とか電子書籍とか、言っている場合です

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「女性同士」「男性同士」だと伝わらない。「同士」では、甘い。
「男女間」という言葉にあるような隔たりと緊張がそこにもあるはずで、だから「女性間の」「男性間の」と言いたくなる。
女性間の恋愛。男性間の親密な感情。
同性ではあっても、そういう時のふたりは同士ではない、気がする。

好きな文章だけを書こうとしたら、やっぱりだめなのかもしれない。書けたものが嫌いでも、下手でも、書いて書き捨てて、何がよく書けたか、何がうまく書けなかったか、削り出していかないとだめなのかもしれない。

本を読んでいて、線を引いたり何か書き込みをすることがどうしてもできないのは、日本の書籍の紙質や製本、つまり全体の品質というものが、やたらと〈潔癖〉に出来ているためである、と仮定してみる。再び本を手に取る時、過去の自分が引いた強調線は、著しく今の私の思考を妨げる。

その欲求と衝動は、すべての人が必要とするものではなく、しかしある種の人はそれに囚われずにはいられない。
人の営みのあるところ、決して根絶されることはなく、今この瞬間も地上に生み出され続けている。
必要としない人にはわからない。必要とする人にとっては必要以上のものである。

にんじんが好物、という人を納得させかつ新鮮なおどろきと楽しみをもたらす一皿を提供するのが二次創作のシェフ、一見さんを初めて食べるにんじんという野菜のファンにしてしまうのが一次創作の三ツ星シェフ。

視野の狭い人は強い。かといって、彼らに勝つために視野を狭くしてはいけない。広い視野に裏打ちされた強さを獲得するのは、生易しいことではない。けれど隙のない広い視野を獲得できた時、そのための努力に裏打ちされて、本当の強さはその人にこそある。

センスがあっても才能はない人。才能はあってもセンスがない人。
天才は、センスも才能もある人。
鬼才は、突出したセンスに才能が伴っている人。
奇才は、突出したセンスに才能がさほど伴わない人。
秀才は才能と、一筋通ったセンス。
センスと才能の違いとは?
才について語るのは、凡人。

文章を書くことに頭を悩ませて生きていたい。それが私の、究極のぜいたくかもしれない。