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小説は伝統工芸へ。コンテンツとしての〈小説〉再考

「小説はこれからキモノになってしまうのか?」

かつて日用品だったモノが、時代が移るにつれて素材や製造方法、さらには需要そのものに生じる変化によって、「伝統工芸品」という位置付けとしてのみ生き残っている。あるいは淘汰され、継承者が途絶えて、あらたに生産されなくなってしまう。

他人事ではなくて、もう「小説」というコンテンツが、そういうものになりつつある。
紙の本とか電子書籍とか、言っている場合ですらない。小説は読み手を失い、あらたな作り手を失ってしまう。
数少ない書き手だけがたとえば国から保護されて、けれど書きつないだところで限られた買い手しかつかなくて。価格も上がって、というよりそもそも「なぜソレにそんなに払うのか?」、より安価で手軽なコンテンツが氾濫していて。

昨日眠るときにはまだそんなことは考えていなかった。今日、眠りに就く前、私の頭はこの考えに占領されている。
2022年2月23日未明のこと。


何百万年も前に、人類の祖先は洞窟に絵を描いた。デジタルになってもひとはまだ絵を描く。
踊りも踊るし、歌を作っては歌う。

古代ローマ、ギリシャの時代から残るものは、演劇、弁論、随筆。詩。

小説は興き、隆盛はしたが、きっと、廃れる。

決められた四角い紙面のなかで、このまま、何文字何行ずつと定められて。上から下へ、右から左へ、取り立てて流れたり点滅したり震えたり動いたりするわけでもなく音も立てずに、ただじっと収まって。

待っているのは「映像化」。映画化、ドラマ化、アニメ化……
音と映像を剥ぎ取られ、モノクロの言葉だけに結晶した物語は、ふたたび声とからだを得て私たちの前にもどってくる。


いまや物語を語るのに絵巻物をつくろうという人はいない。
絵巻になるということは、現在の映画化に匹敵するような一大事業であった、とある講師は言った。
映画があるのに、アニメーションがあるのに、イチから絵巻物で物語をみせようと考える人は、もういない。

脚本は残る。詩も残る。あらたに生まれる。
けれど「小説」という文芸は、古典・名作と評されるものだけが、ひとつ、またひとつと星のように消えていきながらも時代を下っていき、そうしてただ、先細っていくのではないだろうか。