「これは友だちの話なんだけど」という前置きから始まる、悩みの開陳は、割と本人の切実な相談だったり。
小説というか、エッセイというか。まとまりのないフィクションの乱文。
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「これは友だちの話なんだけど」という前置きから始まる、悩みの開陳は、割と本人の切実な相談だったり。
「重要でも何でもないよ」という顔で、飲み会を抜け出した夜道で、手を繋いでぼそぼそと話したことは、一生覚えていたりするほど、大切な瞬間だったらする。
逆にいうと、「これは大切な話なんです」と訴えるのはYouTubeのCMぐらいだったりして。
「本当に大切なことは、目に見えないんだ」とは、サン=テグジュペリの『星の王子様』のセリフです。それを婉曲解釈するなら、ほんとうに大切なことは、声を張り上げて伝えられるものではないのだと思うのです。
心から好きな人に「好きです。付き合いたい」と伝えるのに、(これを失敗したら永遠に関係が壊れて、話せなくなってしまうかもしれないと、脳裏をよぎり)何度も逡巡して、声が震えるように。
ほんとうに、自分の寂しさや、トラウマや恥を開陳するのは、大声を張り上げるものではない。小さな声で、同じような感性の届く人にだけ、そっと届いて欲しいという祈りを込めて、囁くように語るのだと思います。
声の大きさを比喩だとしたら。感情の動きを「ノンフィクション」とラベルをつけて、新聞報道のように語るのではなく。
「これは小説です」と予防線を張り、ある程度フィクションを交えながら、語ることもあるのだと思うのです。
しかしフィクションだから全てが作り物かというと、その中に書かれる感情の動きや、いくつかの人生や、もしかしたら全てが、事実だったらする事があるのだと思います。
だからこそ、小説は人の心を救う。なによりもアマチュアの書き手にとっては、傷つかない形の自己開示療法のように、書き手を救うのだと思います。
その営みは、多くの心理療法が、自分の状態を書いてアウトプットする事で、勝手に救われる事と似ています。
さて、前置きが長くなりました。小説というか、エッセイというか。まとまりのないフィクションの乱文です。
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自己紹介をさせて下さい。
大学生です。
中学の頃は全国模試で1桁を取り続けていました。
偏差値75の高校に入学し、高校2年生の時イギリスに留学しました。英国料理が口に合わず、3ヶ月で5kg痩せました。
イギリス料理が口に合わなかったことと、もう少し切実ないくつかの理由から、イギリスの高校から逃げ出したあと、流れるように偏差値75の日本の高校も退学しました。
そのあとは、引きこもり生活を送っていました。2年浪人した年齢で大学に入りました。
7連休のゴールデンウィークが10連休になると、「大型連休だ」など騒がれる昨今ですが、3年近く引きこもっていたので、私は10代のうちに1,000連休を過ごしていたわけです。
還元すれば、貴重な10代の1,000日間をフルスイングでドブに投げ捨てた、とも言い換えられるかもしれません。
高校を中退してから、料理店に中卒の肩書きで働きに行っては、仕事をミスするたびに油を引っ掛けられ「これだから中卒は」と毒づかれました。
ちょっと中卒のままあと50年くらい、死ぬまでアルバイト生活はきついと、思い至りました。アルバイトで致命的なミスをして死ぬほど人格否定をされ、布団に入っても寝れる気がしなくて、冬に缶コーヒーを飲んでいた時でした。
慶應の夜学部に滑り込んで、塾講師のアルバイトに就きました。慶應の夜学部は、年間12万円で籍を置けたので。慶應生の肩書きは、それなりの時給を約束してくれました。
ちなみに、その時の塾講のアルバイトの何かの感情の動きを、切り取って文字にしたのが、以下の小説です。
翌年、生徒にもセンター試験の指導をしつつ、自分もしれっと中堅私大を受けました。成績が上位数名に入ると、学費が全額免除で通える大学を狙いました。
その一年は、慶應通信課程のスクーリングも、塾講師のアルバイトも、受験勉強も忙しくて、割と死にたい気持ちになっていました。ただ忙しいせいで、5分以上落ち着いて考える時間がなかった。そのおかげで、それ以上思い詰めなかったのは逆によかったです。
ただ、当時Twitterで出会って付き合っていた恋人には、連絡を絶たれ、振られました。しばらく泣いて、忙しくて余裕がなかった自分を反省し、さもありなん、と受け入れました。
それから数年が経ち、気が付いたら大学を卒業する4年生になっていました。けれど、何かを成し遂げたようでいて、何も成し遂げていなかった、なんて思いながら。せめて、ここ数年で考えたことを書きたいと思ってつらつらとnoteをはじめました。
文章が長い分、Twitterよりも読む人が圧倒的に少ないと思うので。あまり見られていないと思った方が、好き勝手に書けます。
たぶん、僕みたいな人は世の中にたくさんいるのでしょう。僕も来年働きはじめたら、こんなゆっくりと文字にして何かを語れる余裕は無くなって、日々の生活に押し流されていくのだと思います。まるでベルトコンベヤーに乗って流されていくきゅうりみたいに。
「智に働けば角かどが立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とは、夏目漱石の『草枕』の一節です。
智に働くほどの知性もなく、情と性欲に流され、通すべき意地とプライドを捨ててしまった僕は、社会に出たら右に左に流される気がしてしまうので。
「大人とは、裏切られた青年の姿である」と喝破したのは太宰治です。ならば、きっと社会人になったときに、学生までの「青年」としての感性が削られていき、永遠に失ってしまうのが、イニシエーションなのかもしれません。
だとしたら、青年としての私の感性が社会にすりおろされないうちに、書く文章は、「青年としては私」の遺書がわりとでも言えるのかもしれません。
大人になった自分がみたら、「なんか、こんなことを言っていたっけ」と首を傾げるような事が書ける、最後のモラトリアム期間として。
2022/06/18
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