見出し画像

花の名前を教える行為と、言語学


 ところで花の名前を教える行為が、随分と近代言語学の磁場に縛られた思想だ。ポストモダンが1990年代に乗り換えようとした「西洋近代的」な発想とでも言おうか。

 言語の本質は、物事を分ける事である。
 「分かった!」という言葉が、いままで混沌としていた世界をより精密に「分けられた」という意味が語源で生まれたのと同様。
 だからこそ、古典では名前を知られるとその人のものになってしまう民話類型が柳田邦夫『遠野物語』にも収集されているし、「源氏物語』では性行為の前に必ず名前が知られる。
名前を知る、すなわち、その他大勢の名も知らぬ人々から、その人を「分ける」ことが話を進めるトリガーとして物語が駆動する。
**
 ソシュール、ロラン・バルトらによって興隆した言語学も「分ける」ことを言葉の源流と捉える。
 例えば、自然と戯れる日本人などの民族は、自然を言い表す言葉を多様に持つ。蝶と蛾を区別する。
 一方で自然に興味が薄いヨーロッパ人は、自然を言い表す表現の目が粗い。蝶も蛾も区別せずに、羽のついた生き物を「パピヨン」と一括りでまとめる。
 これらの西洋と東洋の、自然を慈しむか、単なる食べ物を取る場所としてのみ把握するかは、絵画の描写対象としても、圧倒的に異なる。
 東洋では遥か昔から『風の谷のナウシカ』や『トトロ』のような自然に焦点を当てた絵画が書かれた。雪舟の水墨画など、その好例だ。宮崎駿が率いた時代のジブリも、その日本の自然崇拝の思想や伝統を汲み取るアニメーション作りをしていた。

 一方で西洋では16世紀ルネッサンスまでは、絵画の役割は2つだけだった。文字だけで書かれた聖書をイメージしやすくする為に、絵にして表現する事。まるで小説やライトノベルの挿絵を描くかのように。
 だからこそ、原作の映像化は、「小説で読んだ時のイメージはこんな顔と声じゃなかったのに」と根強いファンから批判を受ける事がある。これがイスラム教や、キリスト正教が偶像崇拝として、文字で書かれた聖書以外の銅像や絵を批判する理由だ。また話が逸れた。
 もし一つは、王族など人の顔を描く事だ。カメラがなかった時代だ。結婚前のお見合いの為に先に絵を送り合った。いまなら、マッチングアプリで自撮りの写真をスワイプする感覚で、写真を眺めて、相手の容姿を想像して相手を選んだ。
 しかし、誰もが自分を良く見せたがる。ナポレオンが小さな醜男だったのに、勇ましい男として書かせたことは、また、絵師も王族の不興をかって殺されては叶わぬと、精一杯綺麗に描いた。
 しかしカメラ・オブスキャラ、通称カメラの登場で人物画を描くという絵師の仕事は奪われる
 ここでようやく「絵にしかできないことはなんだ?」という視点が生まれ、印象派を発端とした、「目で見たままの写実的な絵画」とは異なる独自の表現技法が絵画で発展するようになる。
 西洋に輸出する、日本の陶磁器を包む紙代わりに使われた葛飾北斎らの浮世絵が、ゴッホやマネ、モネにインスピレーションを与えて印象派は産声を上げる。世界は繋がっている。絵画展もこの視点で観ると面白い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?