Twitterが苦手な理由と、言葉について
こんにちは。桜小路いをりです。
先日、Twitterとnoteのアカウントを連携させました。
私は、色んな小説投稿サイトやブログのサイトに会員登録をしているのですが、今、主に使っているのは「monogatary.com」と「note」のみです。
使い分けは、このような感じにしています。
*monogatary.com*
・主に物語を投稿する。
・「書けそうなお題」のときだけ、「参加したいコンテスト」にだけ投稿する。
・どちらかというと「よそ行き」の文章。
*note*
・主にエッセイや日々のこと、音楽のこと、自分のことを投稿する。
・「好きなこと」を「好きなときに」書く。
・どちらかというと「ちょっとそこまで」の文章。
ここに、さらにTwitterは「部屋着」の感じで、よりラフに、さくっと投稿していこう、生まれたての感情の鮮度を大切にしていこう、なんて考えていたのですが、挑戦した結果、募ったのは苦手意識のみ……。
短い言葉を、さらっと打って投稿する(=全世界に発信する)ことのハードルと、「せっかくなら気の利いた言葉を」と気を張ってしまうので、向いていなかったのかなと思います。
私は、文章を推敲するときも削る作業が主になるほど、「色々と書きすぎる」タイプなので、短い文章はまだまだ練習中です。もう少し短い文章も上手くなったら、苦手意識も減るのかな、と思っています。
でも、心のどこかで、Twitterに飛び込むことを躊躇っている自分もいます。
リアルタイムで色んな言葉をつぶやいている人がいて、リアルタイムで話題にされていることがひとめで分かること。
友達にLINEを送信するように、簡単に投稿ができること。
便利なようでいて、やっぱり少し危険だな、とも感じてしまいました。
Twitterを眺めていると、言葉の洪水に埋もれているような感覚になることがあります。
それは、monogatary.comでもnoteでも似たような感覚になるのですが、Twitterのほうがどこか混沌としている印象です。
影響力のある人の言葉が一気に広がって、影響力のない人の言葉も、ある時には火種になってしまったり。
しかも、その場面をリアルタイムで見ることができて、自分もその渦の中に飛び込むことができてしまう。
言葉って本当に危ないものだな、と思いますし、言葉を扱う者の端くれとして、その使い方には十分気をつけなければならないな、とも、つくづく感じています。
特に文字として起こすならば、なおさら注意して、助詞のひとつ、句読点のひとつにも気をつけて、言葉を紡いでいかなければならないと思っています。
そう思う理由は、私自身が、言葉に傷つけられ、言葉に救われた経験がたくさんあるからかもしれません。
だからこそ、Twitter上で流れてくる、誰かを中傷するような言葉の裏に、ナイフのようなものが見えてしまう。ちくりとした皮肉に、針のようなものが見えてしまう。
そんな言葉を見ていると、ふと、自分の言葉の裏には何が見えているのだろう、と思ってしまいます。
できれば、優しくてあたたかい何かを感じてくださっていると嬉しいな、なんて、いつも考えています。
最後に、私の「言葉を発信することへの想い」に重なる部分の多い、素敵な楽曲をご紹介します。
こはならむ「涙の融点」Official Music Video - YouTube
こはならむさんは、デビュー前から「歌ってみた動画」を見ていて、密かに応援していました。配信ライブで初めて聴いて、「とっても素敵な曲!」と思っていたこの曲は、今日リリースされたばかりです。ぜひ聴いてみてください。(この曲についても、詳しく別の記事で書こうと思っています。)
まとまりがあるような、ないような記事になってしまったのですが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この記事が、少しでも、みなさんの小さな発見に繋がれば幸いです。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。