雨の日の読書、現実との境目に。
こんにちは。桜小路いをりです。
私は、雨の日に家で読書をする、ゆったりとした時間が好きです。
小学校低学年のときは、雨の日に図書室に行って絵本を捲る休み時間が、ひそかな楽しみでもありました。
もちろん今も、特に予定のない雨の日は読書にあてることが多いです。
なんで、こんなに「雨の日の読書」に惹かれるのか。
その答えを、少し前、アニメ「クールドジ男子」の台詞の中に見つけました。
(ちなみにこの後、同じ行を繰り返し読んでしまう、という「あるある」なドジが続きます。この落差も好きです。)
雨の日に、ふらっと立ち寄る晴れ間。
それはいつも本の中にあって、読書の時間こそ、雨が降りしきる現実から少し遠ざかっていられる時間。
それを「晴れ間」と表しているところがとても素敵で、お気に入りの台詞になりました。
リアルを否定するわけではないけれど、一定のペースでぐんぐん進んでいく現実には、ほんの少し疲れてしまうこともあって。
そんなとき、自分の頭の中で展開させられるフィクションの世界が、すごく優しく感じることがあります。
私が「雨の日の読書」に惹かれるのは、現実と本の中の世界の境目を飛び越える瞬間が、晴れの日よりもはっきりしているからかもしれません。
本を開いて、文章を目で追って、すっと雨の音が耳から遠ざかっていく瞬間。
どんな音も耳に入らず、無我夢中で文字を追いかけて、頭の中でカラフルな映像を織り上げている時間。
不意に聞こえてきた車の音や、急に強くなった風にあおられて窓を叩く雨の音に、はっと我に返って視線を上げる瞬間。
そのひとつひとつが鮮烈で、なんだか無性に「私は現実に生きているんだ」という想いが強くなるような。
「雨」が続くから「晴れ間」が眩しくて、キラキラとした「晴れの日」があるから「雨」はひんやりと優しいんじゃないかな、と思います。
だとしたら、ちょっと大変な現実だって、読書という「晴れ間」を楽しむうえでは欠かせないものなのかもしれません。
そう思えば、「現実」も、もう少し軽やかに、リズミカルに歩いていける気がします。
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