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雨の日の読書、現実との境目に。

こんにちは。桜小路いをりです。

私は、雨の日に家で読書をする、ゆったりとした時間が好きです。

小学校低学年のときは、雨の日に図書室に行って絵本を捲る休み時間が、ひそかな楽しみでもありました。

もちろん今も、特に予定のない雨の日は読書にあてることが多いです。

なんで、こんなに「雨の日の読書」に惹かれるのか。
その答えを、少し前、アニメ「クールドジ男子」の台詞の中に見つけました。

梅雨。雨が続くこの時期は、耳でその音を拾いながら、本を読むのが楽しい。
作者が与えてくれた情報を頼りに、イメージもサウンドも読み手が補う。切れない集中力に、自然と雨音も遠ざかる。
それはきっと、晴れ間に等しいものだと、僕は思う。

アニメ「クールドジ男子」第13話 冒頭より

(ちなみにこの後、同じ行を繰り返し読んでしまう、という「あるある」なドジが続きます。この落差も好きです。)

雨の日に、ふらっと立ち寄る晴れ間。

それはいつも本の中にあって、読書の時間こそ、雨が降りしきる現実から少し遠ざかっていられる時間。

それを「晴れ間」と表しているところがとても素敵で、お気に入りの台詞になりました。

リアルを否定するわけではないけれど、一定のペースでぐんぐん進んでいく現実には、ほんの少し疲れてしまうこともあって。

そんなとき、自分の頭の中で展開させられるフィクションの世界が、すごく優しく感じることがあります。

私が「雨の日の読書」に惹かれるのは、現実と本の中の世界の境目を飛び越える瞬間が、晴れの日よりもはっきりしているからかもしれません。

本を開いて、文章を目で追って、すっと雨の音が耳から遠ざかっていく瞬間。

どんな音も耳に入らず、無我夢中で文字を追いかけて、頭の中でカラフルな映像を織り上げている時間。

不意に聞こえてきた車の音や、急に強くなった風にあおられて窓を叩く雨の音に、はっと我に返って視線を上げる瞬間。

そのひとつひとつが鮮烈で、なんだか無性に「私は現実に生きているんだ」という想いが強くなるような。

「雨」が続くから「晴れ間」が眩しくて、キラキラとした「晴れの日」があるから「雨」はひんやりと優しいんじゃないかな、と思います。

だとしたら、ちょっと大変な現実だって、読書という「晴れ間」を楽しむうえでは欠かせないものなのかもしれません。

そう思えば、「現実」も、もう少し軽やかに、リズミカルに歩いていける気がします。

今回お借りした見出し画像は、ふわふわとした淡いブルーの紫陽花の写真です。優しい雰囲気が印象的で即決でした。


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