佐久真一

河合電器製作所の代表。人間の能力はそれぞれだが、可能性はいっぱいある。社会はそれを体感…

佐久真一

河合電器製作所の代表。人間の能力はそれぞれだが、可能性はいっぱいある。社会はそれを体感する場所であり、仕事はそれを知るツールでもある。私にとっての組織はアート作品であり、人生いろいろあって全てがおもしろい。

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プロローグ

「もう、社長を降りる」 何度この言葉を嫁さんにつぶやいただろうか。 いつも、きまってこう返される。 「やめてどうするの?」 「そうだなぁ、コンビニでアルバイトでもするかな?」 時は2010年ごろ。気張って、家族のほかには誰にも弱音を吐かなかった。けれども、頭の中は、目の前の現実から逃げだしたい、笑顔が絶えなかったころに戻りたい、そんな思いでいっぱいだった。 インドネシアの視察で、大型観光バスの座席から、軽トラの荷台に乗った何人もの労働者たちを見た。「ああ、できれば彼ら

    • #11. 誇りをもって仕事がしたい

      河合電器製作所の入社日に「おはようございます!」と元気のいい大きな声が響き渡り、ネクタイをきっちりとしめたスーツ姿の人が事務所に入ってきた。いらっしゃいませ、と多くの人々が彼のほうを振り向く。そこにいた社員たちに「いいから、いいから、社長の息子だから」と言いながら、親父の従兄弟であった常務は、私を打ち合わせテーブルに導いた。 いきなり、課長職に相当する「副工場長」なる肩書きが私に付けられた。まずは生産現場で、ものづくりについてイチから学ぶことになった。熟練のパート社員から細

      • #10. 成功体験がなく次の世界へ

        統計データベースの構築を一区切りさせ、後輩にその仕事を引き継ぐと、ビル内の温度や湿度を測定するセンサーなど、空調制御には欠かせない製品の企画をする仕事に変わった。素子の研究開発をする部門に筐体や回路設計を行う部門、製造系の部門など、多数のひとたちと一緒になり、新たな製品を創り出していく仕事だった。とくに私はファシリテーションにかかわる役割を担うことが多かった。 海外にも多く出張した。機内でパソコンを使って仕事をしている自分の姿に少しだけ優越感を感じたこともある。ホテルでは電

        • #09. 生きているだけで影響を与え、与えられる

          独身寮の食堂にあるテレビ には、暗闇の空に閃光が走る映像が流れていた。1991年、湾岸戦争が始まったときだった。そのころは残業ばかりが続く毎日で、寮に帰って夕飯を食べる機会はほとんどなく、いつも外食ですませていた。 同じ部署の仲間たちが、展示会の企画と運営をメインの仕事にしていたこともあり、イベントがある日は、たいてい夜10時を越えるまで一緒に働いた。 その後に食べる夕飯は徹夜明けにありがちなハイテンション状態になっていた。   仲間たちといつもの焼き肉屋に入る。運ばれてき

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        プロローグ

          #08. いよいよ社会人だ

          私は平成元年の入社組である。「新人類」と言われながら、花金、花金と叫んでいた時代だった。花金とは土日の休みが浸透し出したころの言葉で、「金曜日は 夜遅くまで思いっきり遊ぶぞ!  二日酔いで土曜日がつぶれてしまっても、日曜日に休めるから大丈夫!  仕事はつらいもの、がんばって夜遅くまで働くもの!」との定義があったからこそ、金曜日は朝からワクワクしたものである。 先輩いわく、私が入社する数年前にその会社は土日と祝日が休みとなったそうだ。それまでは土曜日が半ドンで、土曜日を休みに

          #08. いよいよ社会人だ

          #07. すべての体験は財産である

          劣等感ばかりの学生時代ではあったが、幹部学年のときの同期のまとまりのなさや、レギュラーとして試合に出られなかった経験が、あとあと、私自身のリーダーとしてのあり方のヒントにもなっている。 また、留年も、けっして私にネガティブなものばかりをもたらしたわけではない。 大学4年めは、1年にわたって女子チームの監督を努めることなった。いままでの部の慣例として、留年した人が女子チームの監督を依頼されることが多かった。卒業までに必要な残りの単位数が少ないのが依頼される理由の1つだったの

          #07. すべての体験は財産である

          #06. もってない能力は、いくらがんばったところで身につかない

          対戦校とエールを交換し、部員全員がコートの後方にそろ って校歌を歌った。部員たちの前でプレーをしている仲間たちを心からうらやましく思ったが、私自身、団体戦に出るチャンスは一度もやってこなかった。 春と夏にはそれぞれ1週間の合宿をおこなった。千葉県の白子や軽井沢の定宿でみっちりと練習する。この間、 とにかくさまざまな規則が定められており、とくに朝は6時に起床し、夜は10時に消灯するというルールは絶対に守らなければならなかった。 もちろん、1年生は多くの仕事をこなさなければな

          #06. もってない能力は、いくらがんばったところで身につかない

          #05. そのイカ、ポン!

          大学に進むのに1年、大学を卒業するのに1年、よけいな迷惑をかけながら、回り道をしながら、私は社会に出ていくことになる。 就職試験で「大学生のとき、何やっていたの?」と尋ねられても 、「クラブ活動を目いっぱいやっていました!」としか応えられなかった。というか、これだけは一所懸命やってきた。 高校から始めた軟式テニスを、大学に進んでもやることにした。ほんとうは、当時、流行だった硬式テニスのサークルに入って、男女とも和気あいあいの楽しい学生生活を送ろうと目論んでいた。ただ、理科

          #05. そのイカ、ポン!

          #04. 300点満点で5点だった……。

          毎週やってくる実験とレポートで大変な日々だったのだが、ある週の木曜日、指定される風洞実験室にいくと、先週、私が提出した実験の内容だった……。ドキドキ、ドキドキ。心臓の鼓動が止まらなかった。「まずい!」、絶対に落とせないこの科目で大失敗をやらかした。 恥ずかしさと不甲斐なさで、心臓がバクバクし、激しい不安に襲われた。 「違う実験で、どうやってレポートを書いたの?」とみんなから大笑いされた。いまでも大学の友人に会うと、このときのことを話題にされる。 製図の授業では、ひとりひと

          #04. 300点満点で5点だった……。

          #03. オレ、機械科に向いていないんじゃないか?

          私の代になってやってきたことの詳細については後述するが、河合電器製作所は、ハンダゴテやアイロンの修理業から始まった。ちょうど世の中に電熱線というものが登場したときだ。電熱線は、ニッケルとクロムを主とした合金であるニクロム線から作られており、電気を通すとニクロム線の抵抗によって、電気エネルギーが熱エネルギーに変換される。 渦巻き状の簡易な電熱器から始まり、コーヒーメーカー、パン焼き器、餅つき器、魚焼き器、ホットプレート、オーブンレンジ、洗濯機や食器洗い機用の乾燥機 などなど

          #03. オレ、機械科に向いていないんじゃないか?

          #02. 勝った!男の子だ!

          1965年(昭和40年)、そこは愛知県。工場の中の小さな小さな家で、私は生まれ育った。 その昔にヒットした火曜サスペンス劇場で、テンテン、テンテンとドキドキするような怪しいBGMが流れ、犯人が逃げ込むシーンに出てくる町工場を思い出してもらえれば、わかりやすいと思う。 若い人は番組を知らないもしれないが、灰色のコンクリートの床の上に乱雑に機械や作業テーブル、そして鉄製の机が置かれている場面を想像してほしい。 名古屋市から見ると、地名のとおりに東の郷である「 東郷村」に工場

          #02. 勝った!男の子だ!

          #01. 目に見える成果、厚生労働大臣賞

          「来年の3月10日、スケジュールを空けておいてもらえますか?」 2016年の年末に1本のメールが入った。 数か月前にたまたま封書で送られてきた、公益財団法人「日本生産性本部」からのダイレクトメールを読んで応募した賞についてである。「詳しくはまだ言えませんが、いずれかの賞に入っています。とりあえず、その日を空けておいてください」とのことだった。 飛び上がるほど嬉しかった……。さっそく、各部門のマネージャーたちにメールでその旨を伝えた。もとより、この賞をいただくことが目標で

          #01. 目に見える成果、厚生労働大臣賞