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#09. 生きているだけで影響を与え、与えられる

独身寮の食堂にあるテレビ には、暗闇の空に閃光が走る映像が流れていた。1991年、湾岸戦争が始まったときだった。そのころは残業ばかりが続く毎日で、寮に帰って夕飯を食べる機会はほとんどなく、いつも外食ですませていた。

同じ部署の仲間たちが、展示会の企画と運営をメインの仕事にしていたこともあり、イベントがある日は、たいてい夜10時を越えるまで一緒に働いた。 その後に食べる夕飯は徹夜明けにありがちなハイテンション状態になっていた。

仲間たちといつもの焼き肉屋に入る。運ばれてきた皿にどんな肉が盛られていようと、十分に熱せられた鉄板に一気にのせ、野菜炒めかと思われるほど、箸で乱雑にかき混ぜた。肉のおいしさを味わうより、そんな自分たちの仕草を大笑いしながら楽しんだ。

ささやかな宴のあいだに終電を逃すことも日常茶飯事だった。当然、ビジネスホテルに泊まるほうが安かったが、イベント会場の恵比寿から神奈川の寮までなんどもタクシーに乗って帰った。当時は、まだ、バブル の余韻が残っていて 、タクシーを捕まえるのも一苦労だった。 駅前の乗り場には長蛇の列ができ、自分の番が来るのを何時間も待たなければならない。 そんなときは、タクシーチケットを振り回し、「長距離だよ」と アピールする荒技を駆使して、なんとか帰宅の手段を得ていた。

日本とアメリカの合弁企業に入社したからには、外国人が沢山働いていて 、英語も頻繁に使われると思っていた。 実際には、私の予想に反して、いたってありがちな日本の企業だった。まわりを見わたしても外国人らしき人はひとりもいない。 ふつうに日本語だけで仕事ができた。

もともと、私は本を読解する能力もそれほど高くなく、日本語を操る能力もかなり怪しかった。同じ言葉だから勝手に外国語も理解できないと決めつけていた が、少しだけでも英語はしゃべれるようにはしたかった。英語が話せると見える世界が変わる、できることが変わる、と思っていたからである。

入社して早々に扉の掲示物に目がとまった。

英語研修の参加者募集!

毎週土曜日の9時~12時だった。せっかくの週末で遊びたい気分もやまやまだったが、みんなが遊んでいるうちに勉強しなければ、成長はないと思い込んでいた。さっそく申込書に名前を書いた。

とは言っても、若いうちは休みの朝はゆっくり寝ていたいものである。土曜日も朝9時に会社に来るのは正直きつかった。しかしながら、この研修がきっかけで、英語には慣れてきた。その後も継続して、就業後の日常英会話コースに参加するようになった。

入社時は全員がTOEICのテストを受けなければならなかった。そのせいか、先輩も同期の仲間たちも、自分の点数をしきりに気にしていた。 半期に一度のTOEICが終わると、寮の大風呂でも「何点だった?」が共通の話題になった。最低でも500点ぐらいは取っていないと、恥ずかしくて、とてもその会話には 入れなかった。

勉強すればするほど点数が上がる、 TOEICに私はゲームみたいな感覚でトライできた。 実力との誤差はあるものの、テストのたびに明らかになる点数は、がんばった量を表してくれるメモリのように見えた。何よりもやりがいがあった。

寮生活は学びの面でもかなりの刺激があった。一階に設置されている部屋ごとの郵便受けに英字新聞が刺さっている人も多く、となりの部屋からは夜な夜な英語を音読する声も聞こえてきた。 カセットテープで英会話を聞きながら会社に通う人もめずらしくなかった。

そんななか、入社4年目ぐらいには、社外の英会話スクールに通わせてもらうチャンスが巡ってきた。2か月のあいだ、平日でも出社せずに朝の10時から夕方の4時まで、 六本木近くの学校で英語を学ぶことが許された。 社内から4名だけが参加し、少人数クラスで最後まで同じ先生に教えてもらった。

こんな機会を作ってくれ たことに対して、働いていた会社にはただただ感謝しかない。つねに人財育成に力を入れてもらった。厳しく指導されるチャンスはあまりなかったが、自由に仕事ができる部門や上司たちに恵まれた。

自分たちで勉強会の企画もできた。就業後や時間内を問わず、社外向けに英文の書類を作成するのが仕事で、米国人の母親をもつ女性の先輩にお願いすれば、私たちのためだけに英語のライティングやリスニングのレッスンをしてくれた。地下の喫茶店では、英語しか話してはいけないルールで、 ボードゲームのモノポリーをやることもあった。

すごく恵まれた環境だった。

六本木の英会話スクール以外にも、幕張にある海外職業訓練協会(OVTA)で2週間の授業を受けさせてもらった。そのおかげで社外に多くの友だちができた。ここで知り合った人たちとは、 いまでもKOVTA(こぶた)の会と称して、たまに旧交を温めることがある。

ほかにも、葉山にある湘南国際村や横浜で、 泊まり込みの英語研修に何度も参加させてもらった。

学びに対しては社内の誰もが貪欲だった。すぐに活かされるスキルでなくとも、さまざま研修が用意されていた。部内には回覧で研修の案内が頻繁にまわってきた。マネージャーは特定の誰かを推薦することはせず、参加したい人が自由に自分の名前を書きこめた。 もちろん、参加人数には制限がある。先輩か後輩かは関係なく、いかにも自分が最優先だとアピールするように、すでに申込書に記入された他の人の名前を下にずらし、自分の名前を上段に書くほどだった。

多くの仲間たちが社内だけではなく、自分たちでさまざまなビジネススクールを探してきて、お互いに紹介し合いながらスキルを高めていった。MBAのカリキュラムで論理的な 思考パターンなども身につけていった。

学ぶ力はこれ以上ないほど養えたし、環境が人を作ることも十分に体験できた。前職で与えてもらったチャンスをそのまま恩返しすることは難しいかもしれないが、私が得たものを「循環」させるためにも 、いま目の前の人たちには、できるかぎり学びのチャンスを提供し続けていきたいと思っている。

人は生きているだけで、お互いによいも悪いも影響しあうものだと思う。環境が人を作るからこそ、一緒に働く仲間はとても大切である。

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