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#04. 300点満点で5点だった……。

毎週やってくる実験とレポートで大変な日々だったのだが、ある週の木曜日、指定される風洞実験室にいくと、先週、私が提出した実験の内容だった……。ドキドキ、ドキドキ。心臓の鼓動が止まらなかった。「まずい!」、絶対に落とせないこの科目で大失敗をやらかした。

恥ずかしさと不甲斐なさで、心臓がバクバクし、激しい不安に襲われた。
「違う実験で、どうやってレポートを書いたの?」とみんなから大笑いされた。いまでも大学の友人に会うと、このときのことを話題にされる。

製図の授業では、ひとりひとりに設計値が与えられ、その数値に基づいて図面を描いていく。

当時の私は、単位を取得するために与えられた課題をこなすのに精一杯で、授業から将来のための知識を学ぶなどという余裕はなかった。

製図はトレーシングペーパーに専用の鉛筆で描く。

あるとき、部活の先輩が書いた図面に製図用のトレーシングペーパーを乗せ、いかにも自分でやったように、まるごと描き写した。ところが、他の生徒のものと比べてみると……。なんと、私の図だけ時計回りに90度、傾いていた。

「げー!! しまった……。」大声のひとりごとが、教室中に響きわたった。

図面で描く製品を知っていれば、こんなことは起こらない。ものそのものに興味がなかった僕は、課題を 処理することで精いっぱいだった。

ありえない姿の図面を見て、またしても仲間は大笑いしていた。

機械だけではなく、平面図を見て、頭の中で3次元の立体に変換するセンスもなかった。物理的な数式であれば、なんとか理解して解くことができたのだが、実験や実習は大の苦手だった。

期末の製図の試験は5時間もあった。白紙の紙が何枚か配られ、問題文は「与えられた数値のとおりにギアを設計せよ」のたったの一行だった。

他の人の図面以外なら、何を見てもよかった。学校の図書館から、関連する書籍を借りまくっていたが、問題文を読んでも、どの本から、どの情報を参照すればいいかさえ わからなかった。

「うーん、うーん」、と唸っても何も描けず、冷や汗だけ出てきて、居眠りすることもできなかった。あきらめてその場を出る勇気もなく、ただただ、時間が過ぎるのを待つしかなかった。

300点満点で5点だった……。

他の科目も同じような感じだったことは、容易に想像できると思う。

通った大学は、留年の割合が2割から3割と高かった。こんな調子だった私も、3年生の終わりには、すでに4年間で卒業できないことが決まっていた。

自分では「これが実力」と開き直っていたが、このときの最大の問題は 親への報告であった。何よりも、毎月、仕送りをしてもらい授業料も払ってもらっていることが申し訳なかった 。

なかなか用件を切り出せず、あれこれと違う話しを続けていた 。自分の親との会話なのに心臓がバクバクしてどうしようもなかった。

「もしもし……。じ、じつは、4年 で卒業できないことになった」

自分で道を切り拓いていかなければならない年齢にもなって 、親によけいな支援をお願いしなければならない自分が惨めで情けない人間のように見えた。

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