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#02. 勝った!男の子だ!

1965年(昭和40年)、そこは愛知県。工場の中の小さな小さな家で、私は生まれ育った。

その昔にヒットした火曜サスペンス劇場で、テンテン、テンテンとドキドキするような怪しいBGMが流れ、犯人が逃げ込むシーンに出てくる町工場を思い出してもらえれば、わかりやすいと思う。

若い人は番組を知らないもしれないが、灰色のコンクリートの床の上に乱雑に機械や作業テーブル、そして鉄製の机が置かれている場面を想像してほしい。

名古屋市から見ると、地名のとおりに東の郷である「 東郷村」に工場があった。敷地内には社員寮も設けられており、小学2年生のときに、家族が別の場所に引っ越すまで、私は会社の先輩たちにいつも遊んでもらっていた。

バイクのうしろに乗せてもらったり、寮の部屋で肩車してもらったり、彼らは父親のように私をかわいがってくれ た。

大好きだった三輪車が、工場の敷地内で小型の白いトラックに踏まれて、ぺちゃんこになったときは、子どもながらに文字どおり凹んだ。

当時、職場のもめごとも多かった。

取引先からの注文に追われる日々で、いつもみんな忙しく働いていた。作業の進め方の違いをめぐっての言い争いや、そもそも、言葉の荒っぽさが原因によるものなど、子どもながら、学校との違いを感じていた。

表の道路で社員たちが真剣に殴り合いの喧嘩をしている姿は、いまでも鮮明に覚えている。

先輩たちの話しによれば、当時は社内恋愛も多かったとのこと。もしかしたら、男女の関係が原因だったのかもしれない。

職場の空気感はよくなかったが、それだけ熱い人たちの集まりだったのだろう。

工場にある自宅から学校までは、大人の足で40分かかるほどかかった 。あちこちに寄り道をする小学1年生の足であれば、ゆうに1時間を超える 。
気軽に遊びに行ける距離に友だちの家はなく、ひとりで遊ぶことが多かった。

株式会社河合電器製作所は、私の母方のじぃちゃんの姓である「河合」から名付けられ、1929年に創業された。世界恐慌、第2次世界大戦、オイルショック、バブル崩壊と、たびたび襲ってくる不況は 、経営陣に多くの試練を与えたと思うが、 なんとかいまに至るまで危機を乗り越えてくることができた。

2019年に創業90周年を迎え、100年企業の仲間入りまであと少しとなった。

父から、じぃちゃんは働くことより、友人たちといつも喫茶店で話し込んでばかりいると聞いたことがある。また、じぃちゃんは麻雀が大好きだった。負けが込んで、借金がかさみ、自宅兼作業場であった土地も、他人に取られてしまったほどだ。

最後には、自分の家が建つ土地にお金を払って住むことになってしまった。ちなみに、喫茶店で過ごした仲間たちに、会社の出資金を募っていたようで、のちのち、私の代でこの株式を回収するのにひと苦労することにもなる。

ばぁちゃんは、後妻さんであった。じぃちゃんの前妻が早くに亡く なってしまい、その後に河合家に嫁いできた。前妻とのあいだに2人の男の子が生まれ、ばぁちゃんも 2人の女の子を授かった。この2姉妹のうち、姉が私の母にあたる。

母から聞いた話しによると、ここまで事業を継続できたのも、4人の子どもたちが育ったのも、ばぁちゃんが、しゃかりきになって働いてきたかららしい。

何か、じぃちゃんのダメっぷりばかりを書いてしまったが、 おもしろいことに、彼の悪口をいう親戚はひとりもいない。愛される人だったのか、まわりから見ると助けたくなる人だったのか、優秀でなくても、お金がなくても、幸せであれる典型的な人のような気がする。

父は大阪出身で、貧乏な家庭で育った。工業高校の機械科を卒業した後 、大手の塗料会社に就職したが、何らかの理由で解雇されてしまう。本人いわく、労働組合の活動を率先して 行っていたからだそうだが、細かいところまで聞くチャンスはなかった。

最初の仕事を失った父は 、関西にある電気メーカーで働いた。三輪オートを運転中、突然、トラックが対向車線から飛び出てきて、それを避けきれずに壁に激突してしまう。大けがをして関西が嫌になり、その後、愛知に住む友人の誘いで名古屋にやってくることになった。

名古屋にきて、父は友人と2人で会社を立ち上げた。じぃちゃんが経営する河合電器製作所が取引先の一つだった。父の言葉によると、じぃちゃんの話しにうまいこと乗せられ、この会社は河合電器製作所と合併することになったそうだ。

いまでも、会社の古い就業規則を見ると、父の会社で働いていた人は、河合電器製作所の勤続年数に加えると書かれており、その足跡が残っている。

この人がのちに、じぃちゃんの長女、すなわち私の母と結婚することになる。

母の兄弟のそれぞれの夫婦には、男の子が生まれていなかった。私が生まれた瞬間、ばぁちゃんは、

「勝った!男の子だ!」

そう叫んだそうである。

ばぁちゃんから見たら、私が初孫で初の男の子になる 。その時点で、私は3代目、あるいは4代目として会社を継ぐことがなかば運命づけられたわけである。

こうして、ばぁちゃんの重い 期待をずっしりと背負う人生が始まった。

私はまわりからの無言のプレッシャーを受けながら、社長という針路を否応なしに進んで いくことになる。

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