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#10. 成功体験がなく次の世界へ

統計データベースの構築を一区切りさせ、後輩にその仕事を引き継ぐと、ビル内の温度や湿度を測定するセンサーなど、空調制御には欠かせない製品の企画をする仕事に変わった。素子の研究開発をする部門に筐体や回路設計を行う部門、製造系の部門など、多数のひとたちと一緒になり、新たな製品を創り出していく仕事だった。とくに私はファシリテーションにかかわる役割を担うことが多かった。

海外にも多く出張した。機内でパソコンを使って仕事をしている自分の姿に少しだけ優越感を感じたこともある。ホテルでは電話回線を使い、毎日、メールを送っていた。プロバイダーは、世界中にアクセスポイントがあるAOL(エーオーエル)を好んで使った。

世界中でインターネットにつなげられるよう、さまざまな形の電源アダプターや電話ジャックを持ち歩いた。いまではどこでもWiFiを使えるようになったが、アクスポイントにつながるたびに「ピーヒョロロー」とパソコンに内蔵されたモデムからでる甲高い音を思いだすと、とても懐かく感じる。

5年ほど新製品の企画に携わったあと、海外事業部に異動になった。初めて製品を売る立場を経験することになる。

この会社には、社員にさまざまな仕事を経験させる人財育成プログラムがあり、同じ仕事を5年以上続けていると、自動的に部署異動の対象者リストに挙がる。いまの仕事以外で自分が希望する部署を2つ人事部に提出しておかなければならなかった。私はこの2つを書いていた。

1つめは、異国に行ける海外部門。

2つめは、機械が苦手なはずなのに生産技術。

2つめに生産技術と書いたのは、工場の脇にあるコートで終業後に思いっきりテニスの練習したたかったからだ。卒業後も苦手なスポーツだったテニスを継続していた。会社のソフトテニスチームに入り、全国大会への出場を目指し、土曜日は練習に明け暮れた。いまから思うと、これほどの熱意を仕事には注いでいなかった。

この年の3月の誕生日に上司に呼び出され、「希望どおりでしょ」と告げられ、海外部署への異動が決まった。

いまでもしっかりと覚えていることがある。
移動の辞令には「5月1日より」と日付が記されていた。けれども、その日はゴールデンウィークの真っ最中で、実際に出勤するのは休み明けと決まっていた。初日の朝、私はさっそく新しい部長に挨拶に行った。しかしながら、彼は休暇を延長していて不在だった。

けっこう、ショックだった。

「もしかして、自分はあまり歓迎されていないのかな?」とも思った。この日の記憶は、いまの経営でも役に立っている。人事異動をする際は、受け入れ側の準備を万端にし、転居を伴う異動の場合はできるかぎり 、初日に私も新天地に赴くよう心掛けている。

日本国内でもセールスはやったことなく、正直、どうすればいいかまったく検討がつかなかった。出張や貿易文書で使うレベルの簡単な英単語では、製品を説明できるはずがない。何よりもリスニング力が足りず、先方の話を理解するのが大の苦手だった。

へまなこともいっぱいやらかした。

あるとき、いままで自分が企画してきたものや扱ってきた空調分野とはまったく違う製品を売ることになった。指紋を認証して鍵管理をする装置だった。香港の会社にアポをとり、新製品のプレゼンテーションをする時間をとってもらった。いざ、客先で説明をしようとしたら、OHP(プレゼン用紙を透明のポリプロピレンシートにコピーして、光を照らし白板などに資料を共有する装置)シートをホテルに忘れてしまったことに気づく。

同行者はおらず、ひとりだけで行動していた。しかも、私はこのときのためにわざわざ日本からやってきた。この日は実機を使った説明で、なんとか切り抜けたが、このころから自分は仕事ができないやつと勝手に決めつけはじめていた。

いまでは、おっちょこちょいと忘れものの常習は自分の特性だと認識している。したがって、その場では困っても、落ち込むことはなくなったが、当時は自分のダメさ加減を責め続けていた。

香港のひとたちは、みんな優しかった。へっぽこな営業しかできない私をなんども食事にも連れていってくれた。

台湾、中国、韓国と飛び回って、現地で私たちの製品を扱ってもらえる代理店を必死で探した。手探りでさまざまなところに声をかけた。韓国ではマンションのメインゲートに指紋認証の装置を設置してもらえるよう、住民たちに説明会を開いた。韓国語がまったくわからないなか、日本製をなんとか信用してほしいと強い思いをもってその場に立っていた。中国ではローカルのホテルで展示会を開き、大騒ぎしながらの飲み食いをさんざんしてもらったあとに少しだけ製品を説明したこともある。それほど多くはないが、異文化のビジネスマナーの違いも経験することができた。

これといった成功体験がないまま、月日だけが経過していった。

1987年は映画『私をスキーに連れてって』が大ヒットして、スキー人口が5年で約2倍になった。いま流行のランニングやウォーキングなどの運動と違い、スキーは道具からチェーン、スキー板を積むキャリア、ウェア、リフト代、宿泊代まで、一回やるだけでも費用がかかる。ブームのおかげで経済効果も莫大だった。冬の街中はスキー板を積んだ車が多かった。いまから思えば、自分もよくお金を使い、よく遊んだ。

ある日、会社の男女6人でスキー旅行を予定していた。仕事を終え、会社の寮で準備も万端に整え、「よしっ」と思っていたところ、「そちらの寮に行く途中で事故しちゃったから行けない……」と女の子から寮にドタキャンの電話が入る。結局、男3人で2泊のスキー旅行へ行くことになった。当然、宿のキャンセル代金が発生し、女の子たちの分は3人で負担することになった。

また別の日、会社の女の子と2人で日帰りでスキーに行く約束をした。新しくキャリアを買い、ワクワクしていたところ、当日、会社の内線に「おじいちゃんがなくなっちゃった……」との電話が入った。いまから思えば、私はずいぶん、悪い人たちと遊んでいたようだ。こんな悲しい想い出もいまではすべて笑えるネタである。

ミレニアムにの区切りにあたる2000年の正月、私の中には新しい世界に向かう予感がしていた。34を迎える誕生日月の3月には名古屋に戻る決断をしていた。

さっそく、父宛に手紙を書き、履歴書と一緒に送付した。

「拝啓、父上殿。そろそろ名古屋に戻りたい候」

すぐにOKの連絡があった。その年の7月から河合電器製作所での新しい生活が始まることになった。溜まっていた有給もほとんど消化せず、転居に必要な日にちだけ休み、退職日のギリギリまで働いた。もう少し心に余裕をもち、海外にでもぶらりと体験旅行でもしておけばよかったと思っている。

名古屋に帰ると決めてからまもなく、父から一本の電話があった。

「長男だから、いま伝えておく。リンパ癌になった」

これから親父と一緒に仕事ができる……。そう思っていたのに、いきなり深刻な病名を聞かされ、すぐに反応ができないほどびっくりした。父はこれまで、膠原病と糖尿病を長い間患っていた。そこに今回の癌の話である。いまから20年も前のこと。当時、癌はまだ不治の病と言われていた。そのうえリンパとなると、全身に転移する可能性があるし切除もできない。

勤め先から家路につく途中で、自然と涙が溢れてきた。

営業で「これっ!」といった成績も残せないまま、名古屋に帰ることになった。これからさまざまな経験を積んでいくにしても、正直にいって不安な気持ちでいっぱいだった。

実績がリーダーシップには欠かせない。

このときの私はまだ、そう思い込んでいた。ここから後継社長への道、ドタバタの社長業が始まったのだった。

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